【政治を読む】TVメディアは政治を歪め国民に信じ込ませてきた

””悪が栄えるのは、善人が何もしないからだ”” 長期安定政権は国の宝!!➡ 現在もなお日本に仕掛けられる”コミンテルンの罠”を継承する社会共産主義者共、スターリン「最終的に米国を参戦させて疲弊した日・独をそっくり共産主義陣営にいただくのだ」ヴェノナ文書、TBS社長は「安倍を辞めさせる為なら何でもやれ!」⇒加計学園⇒「テレビは洗脳装置。嘘でも放送しちゃえばそれが真実。社会を支配しているのはテレビ。我々によって白にも黒にもなる人間だ」   蓮舫記事「日本人はどれほど騙しやすいか第二次大戦、中国の粛清略奪の歴史に習って、今後も我らが日本を粛清略奪すると指摘する」とする記述。

中国による世界人類破戒 日本が大東亜戦争に巻き込まれていった経緯「張作霖爆殺事件」

08 2013

「張作霖爆殺事件」中国による世界人類破戒
世界の平和を破壊する中国
中国による世界人類破戒、それを証明するDNA


漢人の異常猟奇性中国南北朝鮮人(閲覧注意)

【日本への中国の侵略は既に進行している】
中国の沖縄に対するアプローチは、東チベットで行ったことと非常に似ています。

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1894年 - 甲午農民戦争
1894年~1895年 - 日清戦争は、
1894年(明治27年)7月(光緒20年6月)から1895年(明治28年)3月(光緒21年2月)にかけて行われた

  • 主に朝鮮半島(李氏朝鮮)をめぐる
    日本と大清国(中国史上最後の統一王朝)『清朝』が治めた国家。の戦争
    である


    前者がイギリス帝国に接近し、治外法権を撤廃させる実質的な外交材料となった。
    日清講和条約を結ばせた日本は戦勝国であったが、多くの兵を病死させている。

    また、利率の高い国内軍事公債も戦後に借り替えた。
    条約により台湾を譲り受けた日本は、台湾総督府や台湾製糖を設置した。
    さらに大日本製糖も台湾に進出した。


1894年(明治27年、光緒20年)、

  • 朝鮮国内の甲午農民戦争をきっかけに6月(5月)朝鮮に出兵した日清両国が
    8月1日(7月1日)宣戦布告にいたった。
    日清戦争の原因について開戦を主導した外務大臣陸奥宗光は、

    「元来日本国の宣言するところにては、今回の戦争はその意全く
    朝鮮をして独立国たらしめんにあり」と回想した(『蹇蹇録』岩波文庫p277)。

    三谷博・並木頼寿・月脚達彦編集の『大人のための近現代史』(東京大学出版会、2009年)の言い方では、
    朝鮮は「それ以前の近世における国際秩序においては中国の属国として存在していた。

    それに対して近代的な国際関係に入った日本国は、
    朝鮮を中国から切り離そう、独立させようといたします。
    いわば朝鮮という国の国際的な地位をめぐる争いであったということ」となる。

    近代化された日本軍は、近代軍としての体をなしていなかった清軍に対し、
    終始優勢に戦局を進め、朝鮮半島および遼東半島などを占領した。

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    また戦争指導のため、明治天皇と大本営が広島に移り、臨時第七議会もそこで召集された。


1902年

  • 日英同盟の締結を期に、ロシアは満洲から撤兵を開始するが、日本を軽視し全兵力の撤兵は行わなかった。

    日本では対ロ強硬論が噴出し、また韓国、満洲の利益に関する日露外交交渉は決裂、


    満洲事変までの経緯

    条約無効問題と国権回復運動

    1902年
    • 中国は清朝時代の英清通商航海条約改正交渉より、

      領事裁判権の撤廃や関税自主権の回復など国権の回復に着手しており、


    中国人の卑劣性と絶えない争いのDNAを持つ、
    悍ましい食人文化、韓国人の食犬猫文化


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    南満洲鉄道と関東都督府

    1902年

    • 日英同盟の締結を期に、ロシアは満洲から撤兵を開始するが、日本を軽視し全兵力の撤兵は行わなかった

      日本では対ロ強硬論が噴出し、また韓国、満洲の利益に関する

      日露外交交渉は決裂


1904年~1905年 - 日露戦争
1904年には日露戦争が勃発し両国はアメリカ合衆国の仲介の下で終戦交渉に臨み、

1904年(明治37年)2月8日 - 1905年(明治38年)9月5日)は、

  • 大日本帝国とロシア帝国との間で朝鮮半島とロシア主権下の満洲南部と、
    日本海を主戦場として発生した戦争である。


1905年9月5日に
  • 締結されたポーツマス条約により講和した。


1905年

  • この戦争に勝利した日本はロシアとの間にポーツマス条約を締結した。

    これにより、日本は、東清鉄道の内、旅順-長春間の南満洲支線と、

    付属地の炭鉱の租借権、関東洲の租借権などを獲得した。

    この規定に基づいて、12月、日清間でロシア権益の継承に加えて併行する

    鉄道新設の禁止などを定めた満洲善後条約が締結され、

    鉄道守備隊はのちに関東軍となった。一方で、日本は、


1905年10月、

  • 満洲軍総司令官下に関東総督府を設置し軍政を敷いた

    これに清が抗議し、日本の門戸閉鎖に英米が反発し、



1906年3月に

  • 満洲の門戸開放を迫ったため、日本は満洲開放の方針を確認し、

    同年7月31日の勅令196号をもって、関東総督府が関東都督府として改組された。


1906年6月7日の

  • 勅令第142号をもって


1906年11月26日に

  • 南満洲鉄道が設立された。

    以降、南満洲鉄道を柱とする満洲経営権益は日本の重大な課題となった

    辛亥革命にはじまる中国革命と南満洲鉄道にかかわる年譜を下に示す。

    第一次革命(1911年(明治44年、宣統2年)10月)


1911年5月、鉄道国有化問題惹起

1912年1月1日、南京に臨時政府確立

1913年(大正2年、民国2年)7月
第二次革命の失敗により、

同年10月に袁世凱が正式な中華民国大総統に就任。陸海軍大元帥を兼ねる

1916年(大正5年、民国5年)1月 第三次革命

同年6月、袁世凱の死亡により黎元洪が大総統に就任、南方諸省は独立を取り消す


1916年(大正5年、民国5年)

  • 満洲宗社党問題

    満洲では、趙爾巽、(清末民初の政治家)張作霖は革命に反対だったが、には抗えず、袁と妥協するに至った。

    袁世凱の帝政の反動により、清復辟を目的とする宗社党は、

    吉林将軍孟恩遠(清末民初の軍人)と謀り満洲に騒乱を起こすため、張作霖爆殺を試みたが失敗。

    蒙古人巴布札布(パブチャブ)は宗社党の首領として蒙古兵を率いて南下。

    南満線郭家店に出て、満鉄線を挟んで奉天派と対陣するが、

    日本の抗議で休戦し蒙古へ引き揚げる。その後巴布札布の死により蒙古軍は四散する。

    南北政権の対立(1917年(大正6年、民国6年))の死後、段祺瑞は段祺瑞内閣を組織するが、

    約法旧国会回復を無視したため、広東非常国会及び同軍政府はそれを非難して北京政府に対抗し、

    南北政府の対立が起こった。



1918年(大正7年)3月、

  • 段祺瑞内閣(だん きずい)が再現した際には、長江奥地まで南征軍を進めた。



1919年7月
  • 中華民国蒋介石派はカラハン宣言以降、

    急速に共産主義勢力に接近し、国家継承における条約継承否定説を採用し

    日本との過去の条約(日清間の諸条約)の無効を主張しはじめた。



1920年8月、

  • 安直戦争の際には直隷派(ちょくれいは)を支援して勝利するが間もなく直隷派と対立。


1922年

  • 第一次奉直戦争を起こして敗北すると、張は東三省の独立を宣言し、日本との関係改善を声明した

    鉄道建設、産業奨励、朝鮮人の安住、土地商祖などの諸問題解決にも努力する姿勢を示したが、

    次の戦争に備えるための方便にすぎなかった

    第一次国共合作(1924年)当時の諸外国の支援方針は、主に次の通りであった。
    奉天軍(張作霖) ← 日本
    直隷派 ← 欧米
    中国国民党 ← ソ連(実質は党内の共産党員への支持)


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北伐

1922年(大正11年、民国11年)

  • 第一次北伐北京政府内で直隷派の呉佩孚、安薇派の段祺瑞を圧し、武力統一政策を執った。

    一方、南方広東政府は内部安定と広西占領の余勢を駆って北伐を決し、

    同年に孫文を陣頭に立て北伐を行おうとしたが、南軍陳炯明の反旗で失敗

    第二次北伐国民党はソビエト連邦と提携し共産党合流を容認、



四ヶ国共同管理案

1922年

  • 日英米仏の四国公使が中華民国政府に対し財政整理勧告を出した。



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1923年(民国12年)

  • 陳炯明を破り、広東に更生した蒋介石をもって奉直戦争を行い、

    この機に第二次北伐を行なったが馮玉祥の寝返りで頓挫し




1923年

  • 鉄道において臨城事件が起こり、多数の英米人が被害を受けたため、

    英米を中心に列強による鉄道警備管理共同案が議論された。

    また、中華民国の内政全ての共同管理案も議論されていた。

    この列強による共同管理案は、中華民国広東政府をソ連へと近づけさせ第一次国共合作を始めさせたり、

    直隷派の北京政府にカラハン協定及び中蘇解決懸案大綱協定(中国語版)を結ばさせる原動力となってしまった。

    中ソ紛争敗北後、真偽不明ではあるが、

    白系ロシア人である奉天キリル派代表のペトゥホーフが

    「支那側に交渉中なるが、最近南京政府に於ては赤露勢力を北満より一掃し併て

    今後東鉄に関する絲●を除去する為め日英米仏四ヶ国の国際共同管理を認めんとの意向を

    有する向ある」と話していたとされる。


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1924年(大正13年)の

  • 第二次奉直戦争では、馮玉祥(ふう ぎょくしょう)は
    中華民国の軍人の寝返りで大勝し、翌年、張の勢力範囲は長江にまで及んだ。


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1925年11月22日、

  • 最も信頼していた部下の郭松齢(かく しょうれい)は、清末民初の軍人 中華人民共和国。が叛旗を翻しは窮地に陥った。

    関東軍の支援で虎口を脱することができたが、約束した商租権の解決は果たされなかった。

    の叛乱は馮玉祥の教唆によるもので、馮の背後にはソ連がいたため、張作霖呉佩孚と連合し、

    「赤賊討伐令」を発して馮玉祥の西北国民軍を追い落とした。



1925年(民国14年)3月に

  • 孫文は北京に入り死去した。第二次北伐は失敗に終わる。



1925年(大正14年、民国14年)11月)

張郭戦争

張作霖

  • 第二次奉直戦争後、

    關内に進出し直隷、山東、安薇、江蘇の中央書証を手中に収め、中央政権の掌握をしようとした。

    福、浙の孫伝芳討張の兵を挙げ、江蘇の楊宇霆、呉佩孚は漢口で立ち奉天派と提携、

    国民軍奉天派に呼応し、奉天派の重鎮郭松齢は張作霖と対峙した。

    この戦いにより満洲は兵乱の巷となり、日本は在留邦人保護のため増兵した

    この結果、張作霖に有利な戦いとなり、12月にを葬り、辛うじて満洲王国の崩壊を免れた。



*日本によって満洲王国の崩壊は免れる
中国人の卑劣性と絶えない争いのDNAを持つ、
悍ましい食人文化の中国人はことごとく日本を裏切る。

日本人よ目を覚ませ!


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1926年国民党の北伐で直隷派が壊滅した後、

  • 張作霖は中国に権益を持つ

    欧米(イギリス、フランス、ドイツ、アメリカなど)の支援を得るため、

    日本から欧米寄りの姿勢に転換

    権益を拡大したい欧米、特に大陸進出に出遅れていた米国が積極的に張作霖を支援

    同時期、国民党内でも欧米による支援を狙っていたが、




1926年12月、

  • ライバル達が続々と倒れていったため、

    これを好機と見た張作霖は奉天派と呼ばれる配下の部隊を率いて北京に入城し大元帥への就任を宣言、

    「自らが中華民国の主権者となる」と発表した。

    大元帥就任後の張作霖は、 更に反共・反日的な欧米勢力寄りの政策を展開する。

    張作霖は欧米資本を引き込んで南満洲鉄道に対抗する鉄道路線網を構築しようと、

    南満洲鉄道と関東軍の権益を損なう事になった。この当時の支援方針は次の通りである。

    奉天軍(張作霖) ← 欧米・日本
    国民党
    中国共産党 ← ソ連

    満洲における張作霖の声望は低下し民心は離反した。

    「今日のごとき軍閥の苛政にはとうてい堪えることはできない。

    ……この不平は至るところに満ちており、この傾向は郭松齢事件以後、

    今日ではさらに濃厚になっている」と奉天東北大学教授らは述べている。

    奉天政府の財政は破綻の危機に瀕しており、


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1926年

  • 歳出に占める軍事費の比率は97%で、収支は赤字であった。

    政権は不換紙幣を濫発し




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1927年4月には

  • 北京のソビエト連邦大使館を襲撃し中華民国とソ連の国交は断絶。


    1927年4月

    • 独自に上海を解放した労働者の動向を憂慮した

      蒋介石が中国共産党員とその同調者の一部労働者を粛清し、

      国共合作が崩壊。北伐の継続は不可能となったが、この粛清以降、

      蒋介石は欧米勢力との連合に成功した。



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1928年、以下のような記事が新聞発表された。

  • 電報 昭和3年6月1日

    参謀長宛 「ソ」連邦大使館付武官第47号

    5月26日「チコリス」軍事新聞「クラスヌイオイン」は24日上海電として左の記事を掲載せり

    張作霖は楊宇廷に次の条件に依り日本と密約の締結すべきを命ぜり

    一.北京政府は日本に対し山東半島の99年の租借を許し
    二.その代償として日本は張に五千万弗の借款を締結し
    三.尚日本は満洲に於ける鉄道の施設権の占有を受く



奉天票問題及び現大洋票


1928年7月19日には

  • とくに第二次北伐に着手中の日清通商航海条約の破毀を一方的に宣言し、

    これに対して日本政府はその宣言の無効を主張した


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1929年6月に現大洋票への幣制改革が行われた。


  • また
    1915年

    いわゆる対華21カ条要求をめぐる外交交渉のさい対日制裁として発布された

    懲弁国賊条例はこの交渉で締約した2条約13公文に完全に違背する条例であったが、

    1917年には邦貨100円に対し奉天紙幣110元だったのが、1925年には490元、1927年には4300元に暴落した。

    1918年1月4日以降、

    奉天票は不換紙幣であったため、度々暴落を起こしており、

    この問題が奉天票問題と呼ばれていた。



1929年に強化され

  • 「土地盗売厳禁条例」「商租禁止令」などおよそ59の追加法令となり、

    日本人に対する土地・家屋の商租禁止と従前に貸借している土地・家屋の回収が図られた。

    間島や満洲各地の朝鮮系を中心とした日本人居住者は立ち退きを強要されあるいは迫害された。

    このことは満洲事変の大きな要因となる。



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東三省政府の財政・国軍の中央への統合問題

  • 張作霖爆殺事件(ちょうさくりんばくさつじけん)は、

    在中全権大使を務めたアメリカの外交官・ジョン・ヴァン・アントワープ・マクマリーの覚書によると、

    郭松齢の反乱以降、

    張学良が父張作霖との関係がうまくいっていなかったこと、

    日本と張作霖の関係は完全に満足のゆくものではなかったが、

    どうしようもない状態ではなかったことから、

    日本人が張作霖を爆殺したという説は理解できないとしている


    瀧澤一郎も同様に日本側は張作霖を重視しており、

    殺害するメリットはなく、デメリットしかないことが明らかで、

    日本側が犯行を犯したという言説に疑問を呈している。また、


    加藤康男は『謎解き「張作霖爆殺事件」』で、「ソ連特務機関犯行説」とともに

    張学良犯行説」に言及している。


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1928年(昭和3年、民国17年)6月4日、
  • 中華民国・奉天(現瀋陽市)近郊で、

    日本の関東軍によって奉天軍閥の指導者張作霖が暗殺された事件。別名「奉天事件。

    中華民国や中華人民共和国では、事件現場の地名を採って、「皇姑屯事件」とも言う。

    終戦まで事件の犯人が公表されず、日本政府内では「満洲某重大事件」と呼ばれていた。

    馬賊出身の張作霖は、日露戦争で協力したため日本の庇護を受け、

    日本の関東軍による支援の下、段芝貴を失脚させて満洲での実効支配を確立、有力な軍閥指導者になっていた。


    張作霖は日本の満洲保全の意向に反して、

    中国本土への進出の野望を逞しくし、


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1928年4月、蒋介石(中華民国中国国民党初代中華民国総統)、

  • 1949年に、中国大陸における国共内戦で
    毛沢東率いる中国人民解放軍にに破れ台湾に撤退。
    これが台湾の主権を主張する中華人民共和国中国)と中華民国台湾)間の「両岸問題」)

    は欧米の支援を得て、再度の北伐をおこなう。 この当時の支援方針は次のような構図に変化していた。

    奉天軍(張作霖)
    国民党 ← 欧米
    共産党 ← ソ連

    当時の中華民国では民族意識が高揚し、反日暴動が多発した。

    蒋介石から「山海関以東(満洲)には侵攻しない」との言質を取ると、

    国民党寄りの動きもみせ、関東軍の意向にも従わなくなった張作霖の存在は邪魔になってきた。

    また関東軍首脳は、この様な中国情勢の混乱に乗じて

    「居留民保護」の名目で軍を派遣し、両軍を武装解除して満洲を支配下に置く計画を立てていた。

    しかし満州鉄道(満鉄)沿線外へ兵を進めるのに必要な勅命が下りず、この計画は中止された。



1928年、以下のような記事が新聞発表された。
  • 電報 昭和3年6月1日
    参謀長宛 「ソ」連邦大使館付武官
    第47号

    5月26日「チコリス」軍事新聞「クラスヌイオイン」は24日上海電として左の記事を掲載せり
    張作霖は楊宇霆に次の条件に依り日本と密約締の結すべきを命ぜり

    一.北京政府は日本に対し山東本島の99年の租借を許し
    二.その代償として日本は張に五千万弗の借款を締結し
    三.尚日本は満洲に於ける鉄道の施設権の占有を受く




1928年6月4日、

  • 国民党軍との戦争に敗れた張作霖は、北京を脱出し、

    本拠地である奉天(瀋陽)へ列車で移動する。この時、日本側の対応として意見が分かれる。

    田中義一首相

    陸軍少佐時代から張作霖を見知っており、

    張作霖には利用価値があるので、東三省に戻して再起させる」という方針を打ち出す。


関東軍
軍閥を通した間接統治には限界があるとして、

社会インフラを整備した上で傀儡政権による間接統治(満洲国建国)を画策していた。

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列車爆破

張作霖が乗車していた列車

1928年(昭和3年)6月4日の早朝、
  • 蒋介石の率いる北伐軍との決戦を断念して満洲へ引き上げる途上にいた張作霖の乗る特別列車が、

    奉天(瀋陽)近郊、皇姑屯(こうことん)の京奉線(けいほうせん)と満鉄連長線の立体交差地点を時速10 km程で通過中、

    上方を通る満鉄線の橋脚に仕掛けられていた黄色火薬300キロが爆発した。

    列車は大破炎上し、交差していた鉄橋も崩落した。

    奉天城内の統帥府にかつぎこまれたときには絶命していたが、関東軍に新政府を作らせまいと6月21日に発表した

    また警備、側近ら17名が死亡した。

    同列車には張作霖の元に

    日本から派遣された軍事顧問の儀我誠也少佐も

    同乗していたがかすり傷程度で難を逃れた。

    事件直後に張作霖配下の荒木五郎奉天警備司令に激怒した話が伝わっている。

    張作霖の私的軍事顧問で予備役大佐の町野武馬は張作霖に要請されて同道したが、天津で下車した。また、

    山東省督軍の張宗昌将軍も天津で下車した。常蔭槐は先行列車に乗り換えた。


    車両に乗車していた奉天軍側警備と線路を守っていた奉天軍兵士は

    爆発の直後やたらと発砲し始めたが日本人将校の指示によって落ち着き、射撃を中止した。

    同乗していた儀我が事件直後に語ったところによると、列車は全部で20輌であり、

    張作霖の乗っていたのは8輌目であったが、

    爆破によりその前側車輌が大破し、先頭方の6輌は200メートル程走行して転覆し、列車の後半は火災を起こした。

    8輌目では張作霖の隣に呉俊陞、その次に儀我が座って会談していたが、

    呉がと儀我に寒いからと勧めるのでは外套を着ようと立った瞬間に大爆音と同時にはね上げられ、

    爆発物が頭上から降ってくるために儀我は直ちに列車から飛び降り、

    は鼻柱と他にも軽症を負い護衛の兵に助けられて降りた。

    近くに日本の国旗を立てている小屋があるので儀我は張にそこで休むことを勧めたが、

    この時には「何、大丈夫だ」と答えていた。やがて奉天軍憲兵司令が馬で到着し、現場は憲兵で警護され、

    自動車が到着すると張は自動車でその場を離れ、大師府に入った。



    事後調査

    • ここにおいてか少しでも理屈ある時に

      一大痛棒を喰わせて根本的に彼らの対日観念を変革せしむる要あり」とあり、また、

      奉天特務機関長秦真次少将と張作霖首席軍事顧問土肥原賢二中佐が、

      張作霖親衛隊長黄慕(荒木五郎)に

      謀反を起こさせようとした

      謀略を阻止したことが書かれており

      「もし土肥原なんかのすることを放任していたら、陸軍はもう世間に顔出しならぬこととなっていよう」とあり、


      張作霖の一人や二人ぐらい、野垂れ死にしても差し支えないじゃないか。

      今度という今度は是非やるよ」



      必ずしも張作霖殺害を意味しない、という説もある。


      斉藤恒関東軍参謀長は「張作霖列車爆破事件に関する所見」で、
      爆源は橋脚上部か列車内にあったのではないかと報告している。また、

      列車が現場に近づくや時速10キロ程度にスピードを落としたのはなぜか、と疑問を投げかけている。

      そして、列車内より橋脚上部の爆薬を爆破させようとしたら、
      列車内に小爆薬を装置し、
      これを爆破して逓伝爆破によって行えば容易なり、と述べている。さらに、

      橋脚壁は黒の煤煙で覆われ、黄色粉末を見ず、使用爆薬は黒色または「ヂナミット」である、としている。

      内田五郎領事の報告書では、爆薬は、展望車後方部か食堂車前部の車内上部か、

      または橋脚鉄桁と石崖との間の空隙個所に装置されたものと認められる、とされている。

      さらに、松村謙三は、爆破の状況をみるに、上のガードの下に火薬を装充して爆破したものらしい、と述べている。

      しかし、河本大作は線路脇の土嚢の土を火薬にすりかえたと証言しており、

      秦郁彦は、線路脇の資材置場に積んであった土嚢と黄色火薬詰めの麻袋と差し替えたとしており、

      満鉄線陸橋から奉天側へ数メートルほど離れた地点としている。

      また、松本清張は、満鉄路線脇の歩哨のトーチカに麻袋3個分の火薬がつめこまれたとしている。さらに、

      相良俊輔は、陸橋の橋脚から15メートル手前の線路際に積んであった土嚢の土をのぞき、火薬をつめたとしている。



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    ソ連特務機関犯行説

    • 張作霖爆殺事件は、ロシアの歴史作家ドミトリー・プロホロフにより、
      スターリンの命令にもとづいてナウム・エイティンゴンが計画し、
      日本軍の仕業に見せかけたものだとする説も存在している。

      2005年に邦訳が出版された

      ユン・チアン『マオ 誰も知らなかった毛沢東』でも簡単に紹介され、

      プロホルフは産経新聞においても同様のことを語っている。



      その他

      在中全権大使を務めたアメリカの外交官・ジョン・ヴァン・アントワープ・マクマリーの覚書によると、

      郭松齢の反乱以降、張学良

      張作霖との関係がうまくいっていなかったこと、

      日本と張作霖の関係は完全に満足のゆくものではなかったが、

      どうしようもない状態ではなかったことから、


      日本人が張作霖を爆殺したという説は理解できないとしている。

      瀧澤一郎も同様に日本側は張作霖を重視しており、殺害するメリットはなく、デメリットしかないことが明らかで、

      日本側が犯行を犯したという言説に疑問を呈している。
      また、

      加藤康男は『謎解き
      張作霖爆殺事件」』で、「ソ連特務機関犯行説」とともに「張学良犯行説」に言及している。




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    張作霖爆殺事件」(ちょうさくりんばくさつ)と

    張学良(ちょう がくりょう)張作霖の長男の易幟(えきし)

    易幟(えきし)とは、
    易幟

    • 奉天軍閥を継いだ張作霖の息子・張学良
      国民政府と和解して日本と対抗する政策に転換。



    1928年(昭和3年)12月29日朝、奉天城内外に一斉に青天白日満地紅旗が掲げられた(易幟)。
    結果、日本は満洲への影響力を弱める結果となった。これが後の満洲事変の背景の1つとなる


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1928年6月4日に発生した

  • 張作霖爆殺事件の後、父・張作霖の後を継いだ奉天派の張学良が、

    北洋政府が使用していた五色旗から、蒋介石率いる国民政府の旗である青天白日満地紅旗に旗を換え、

    国民政府に降伏した事件のことを指す

    張学良は国民革命軍に停戦を宣言し、蒋介石の北伐に干渉しないことを表明した。


    満州の地に基盤を築いていた日本は張学良の動きに対して満足していなかった

    首相田中義一は林権助を派遣し、張学良に対し翻意を迫ったけれども、

    張学良は日本の要求を拒絶し、中国統一へと動き出した

    7月3日、蒋介石は北京に到着し、平和裏に中国統一を行うために派遣された奉天派の代表と会談した。

    蒋介石が満州を統合することをアメリカ合衆国は支持していた為、

    この会談の内容は中国における日米の勢力範囲の奪い合いを反映したものであった。

    アメリカ合衆国とイギリスの圧力により日本は外交的に孤立した。

    そして、12月29日蒋介石は、満州における全ての旗が換わったことを宣言し、

    満州に国民政府の支配権が及ぶことを受諾した。

    二日後、国民政府は、張学良を中国陸軍の司令官にすることを約束した。

    この易幟により、中国は、形式上、国民政府により統一されたのであった



張作霖爆殺事件の現場

  • 関東軍は、地元の親日派軍閥長である張作霖に軍事顧問団を送り、取り込みを図った。

    しかし、張作霖が排日運動の高まりや欧米からの支援をとりつけようと日本との距離を置き

    海外資本の提供をうけて、いわゆる満鉄の並行線を建設し始めると、両者の関係は悪化した。


1928年(昭和3年)6月4日、

  • 関東軍は張作霖が乗る列車を秘密裏に爆破し、殺害した(張作霖爆殺事件)。

    事件を首謀した河本大作大佐は、予備役に回される軽い処分とされた。

    田中義一内閣はこの事件処理をめぐり昭和天皇から不興を買ったことにより、

    翌年7月になって総辞職に追い込まれた。

    張作霖爆殺事件によって、日本は国際的な批判を浴びた。

    張作霖の後を継いだ息子の張学良は、

    蒋介石の南京国民政府への合流を決行(易幟)し、

    満洲の外交権と外交事務は南京政府外交部の管轄となった。

    また、東北政務委員会、東北交通委員会、国民外交協会が設置されて、

    日本に敵対的な行動を取るようになった

    ソ連追い出しに失敗した

    張学良は、

    1. 失権失地回復の矛先を南満の日本権益と日本人に向けてきた。

    2. 満鉄を経営的に自滅枯渇させるために、新しい鉄道路線などを建設し、

    3. 安価な輸送単価で南満洲鉄道と経営競争をしかけた。

    4. 満鉄は昭和5年11月以降毎日赤字続きに陥り、社員3000人の解雇、

    5. 全社員昇給一カ年停止、
    6. 家族手当、社宅料の半減、

    7. 新規事業の中止、枕木補修一カ年中止、
    8. 破損貨車3000輌の補修中止、

    9. 民間事業の補助、助成中止など支出削減を実施した。

      また、
      張学良は、

    10. 満鉄の付属地に柵をめぐらし、通行口には監視所を設けて、

    11. 大連から入ってきた商品には輸入税を支払っているにもかかわらず、付属地から持ち出す物品には税金をとった。

    12. さらに「盗売国土懲罰令」を制定し、

    13. 日本人や朝鮮人に土地を貸したり売ったりした者を、国土盗売者として処罰した。

    14. 多数の朝鮮人農民が土地を奪われ、抵抗した者は監獄に入れられた。

      満洲事変直後、奉天監獄には530人の朝鮮人が入れられていたという。

    15. そのうえ、林業、鉱業、商業などの日本人の企業は、日露戦争後の日清善後条約で、

      正当な許可をえたものは、満鉄付属地外でも営業できることになっていたが、

    16. 昭和5、6年には、一方的な許可取り消しや警察による事業妨害のために、経営不振が続出した。

      奉天総領事から遼寧省政府に交渉しても、外交権はないので南京政府の外交部に直接交渉するようにと相手にされなかった。

      外務省を通じて南京総領事が南京政府に交渉しても、いつまでたっても音沙汰なしであった。


    満洲事変前には、このような日中懸案が370件あまりあった

    危機感を抱いた関東軍は、再三に渡り交渉するが聞き入れられなかった。

    これにより関東軍の幹部は、本国に諮ることなく、満洲の地域自決・民族自決にもとづく分離独立を計画した。



白系ロシア人と中ソ紛争 満洲に侵攻するソビエト軍戦車

中東鉄道付属地に住んでいた白系ロシア人は、
1924年

  • 奉ソ協定後も中華民国東三省政府側によって擁護されていた。しかし、

    ソ連側は共産党員イワノフを中東鉄道管理局長として送り込み、


1925年には

  • 奉ソ協定で決められていた理事会の規定を無視して第九十四号命令など行い、白系ロシア人に圧力をかけていた。

    南京政府と合流した張学良は、南京政府の第一の外交方針である失権失地回復の矛先を、
    まず北満のソ連権益に向けた。


1929年(昭和4年)5月27日、張学良軍は共産党狩りと称して、
  • ソ連領事館の一斉手入れを実施し、
    ハルピン総領事と館員30人あまりを逮捕した。

    7月10日には、中東鉄道全線に軍隊を配置して、ソ連人の管理局長と高級職員全員を追い出して、
    中国国籍の人を任命した。

    ソ連は国交断絶を宣告して、ソ連軍が満洲に侵攻し(中東路事件)、
    中華民国軍を撃破して中東鉄道全部を占領した。

    12月22日にハバロフスク議定書が締結され、12月25日にはソ連軍は撤収を完了した。

    中東鉄道の経営と特別区の行政におけるソ連権益は回復され、北満洲における影響力を強めた。
    また、ソ連は鉄道警備隊まで撤退しており、

    満洲善後条約第2条に「若シ露國ニ於テ其ノ鐵道守備兵ノ撤退ヲ承諾スルカ或ハ
    淸露兩國間ニ別ニ適當ノ方法ヲ協定シタル時ハ日本國政府モ同樣ニ照辦スヘキコトヲ承諾ス」とあるので、

    関東軍の鉄道警備駐屯権の根拠が揺らいだ状態になった。
    ソ連はハバロフスク議定書に基づき、中国に対し白系ロシア人の追放を求めて圧力をかけていたため、
    それを恐れハルピンから上海へと移住する白系ロシア人が途絶えなかった。

    共産党暴動及び満洲ソビエト化の陰謀「反共主義歴史」および「万宝山事件」

    コミンテルンには一国一党の原則があり
    1929年ごろには更に重視されたとされる
    日本でも朝鮮共産党日本総局が解散して日本共産党に吸収されている


朝鮮共産党満洲総局は、中国共産党へ加わるために中国共産党の許可の下で、
1930年5月に

  • 間島で武装蜂起を行った (間島共産党暴動)。また、

    1930年8月1日には

    中国共産党満洲省委員会直属の撫順特別支部の朝鮮人によって満洲で八一吉敦暴動が発生した

    奉天省政府は取り締まりを強化したが、それに伴い兵匪や警匪による良民への横暴も増えてしまうこととなった。また、

    満洲における朝鮮人には共産思想に被れた者が多く居たため、中ソ紛争における捕虜の中にも多数の朝鮮人が存在していた。張学良が日本人や朝鮮人に土地を貸した者を処罰する法律を制定したため、各地で朝鮮人農民が迫害された。


1930年11月9日、

  • 関東州の撫順警察署が撫順炭坑において挙動不審な中国人の取調べを行ったところ、
    共産党に関する書類を多数所持しており、李得禄外二名を始めその他中国共産党員21名を検挙した。

    彼らによれば、12月11日の全国ソビエト代表大会前後に満洲省委員会は中央党部と呼応して大暴動を起こし、

    紅軍を組織して発電所や工場を破壊し、満洲に地方ソビエト政府を樹立することを計画していた


1931年6月15日には、

  • 上海租界の共同租界工部局警察(英語版)が

    ソ連スパイのイレール・ヌーラン(本名ヤコブ・ルドニック)を逮捕し(牛蘭事件、ヌーラン事件)、
    極東における赤化機関の全容や、政府要人の暗殺・湾港の破壊計画が明るみに出た。また、

    押収された文書には、
    国民政府の軍隊内に、共産党の細胞を植付け、其戦闘力を弱める事が最も必要」だと記されていた。
    22日には、中国共産党中央委員会総書記の向忠発が逮捕される。


1931年2月、

  • 「鮮人駆逐令」で朝鮮人は満洲から追放されることになり、
    行き場を失った朝鮮人農民は長春の西北の万宝山に入植しようとした。


1931年(昭和6年)7月2日に

  • 満洲内陸に位置する長春の北、三姓堡万宝山において土地を賃借した
    朝鮮人農民が作った用水路に反発した中国人農民が襲撃し、

    さらに日本の領事館警察官と衝突する万宝山事件が勃発した。
    この事件を中国側による不法行為であるとして、

    朝鮮半島では中国人排斥暴動が発生し(朝鮮排華事件)、多くの死者重軽傷者がでた。
    この事件により、日華両国関係が著しく悪化した。

    たまたま長春の近くで発生した事件では満洲青年連盟の長春支部長小沢開作の指導で厳重な抗議行動が
    展開され問題を重大化させたが、このような事件やさらに残虐な事件はざらにあったという。



中村大尉事件

1931年6月27日、

  • 大興安嶺の立入禁止区域を密偵していた陸軍参謀中村震太郎一行が
    張学良配下の関玉衛の指揮する屯墾軍に
    拘束され殺害される中村大尉事件が発生した。

    事件の核心を掴んだ関東軍は調査を開始したが、真相が明らかにならず外交交渉に移されることとなった。
    その場で中国側は調査を約したが、日本による陰謀であるなどと主張したことにより、
    関東軍関係者は態度を硬化させ、日本の世論は沸騰し中国の非道を糾弾、日華間は緊迫した空気に包まれた。

    8月24日陸軍省は、満洲北西部・洮索地方の保障占領案を外務省に送付したが、
    両省間で協議の結果、見合わせることになった。

    しかし中国側が殺害の事実を否定する場合は、
    関東軍の協力を得ながら林久治郎奉天総領事が強硬に交渉することになった。

    鈴木貞一の戦後の回想によると、永田鉄山軍事課長と谷正之外務省アジア局長らが
    「満洲問題解決に関する覚書」を作成し、武力行使を含めあらゆる手段をもってやることが書かれていたという。

    この二つの偶発的ともいえる事件により、さらに

    日本人女学生数十人がピクニック中に強姦される事件も発生し、
    日本の世論を背景に関東軍は武力行使の機会をうかがうようになった


    中国側が事の重大性を認識し全面的に事実関係を認め、

    中村震太郎一行殺害実行犯の関玉衛
    を取り調べ始めたと

    日本側に伝達したのが9月18日午後に至ってからであったが、既に手遅れであった。

    この日の夜半、柳条湖事件が発生したためである。



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陸軍内部の動き

1927年(昭和2年)ごろ、
  • 永田鉄山、岡村寧次、小畑敏四郎らが二葉会[注釈 5]を結成し、

    人事刷新、総動員体制の確立、満蒙問題の早期解決などを目指した。
    同年11月ごろ、鈴木貞一参謀本部作戦課員らによって木曜会が組織され、


1928年3月には、
  • 帝国自存のため満蒙に完全な政治的権力を確立することを決定した。


1928年(昭和3年)10月に
  • 石原莞爾が関東軍作戦主任参謀に、1929年(昭和4年)5月に板垣征四郎が関東軍高級参謀になった。

    満蒙問題の解決のための軍事行動と全満洲占領を考えていた石原、板垣らは、


1931年(昭和6年)6月頃には、

  • 計画準備を本格化し、9月下旬決行を決めていたとされている。


1929年5月、

  • 二葉会と木曜会が合流して一夕会が結成され、人事刷新、満洲問題の武力解決、非長州系三将官の擁立を取り決めた。同年8月、岡村寧次が陸軍省人事局補任課長になり、


1930年(昭和5年)8月、
永田鉄山が軍務局軍事課長になった。同年11月永田は満洲出張の際に、
攻城用の24糎榴弾砲の送付を石原らに約束し、

1931年7月に

歩兵第29連隊の営庭に据え付けられた。

満州事変直前の
1931年8月には、
  • 陸軍中央の主要実務ポストを一夕会会員がほぼ掌握することとなった。


1931年3月、
  • 満蒙問題の根本的解決の必要を主張する「昭和6年度情勢判断」が作成され、
    同年6月、建川美次参謀本部第二部長を委員長とし、
    陸軍省の永田鉄山軍務局軍事課長、岡村寧次人事局補任課長、
    参謀本部の山脇正隆編制課長、渡久雄欧米課長、重藤千秋支那課長からなる、いわゆる五課長会議が発足し、

    一年後をめどに満蒙で武力行使をおこなう旨の「満洲問題解決方針の大綱」を決定した。
    同年8月、五課長会議は山脇に代わり東条英機編制課長が入り、
    今村均参謀本部作戦課長と磯谷廉介教育総監部第二課長が加わって、七課長会議となった。

    今村作戦課長は「満洲問題解決方針の大綱」に基づく作戦上の具体化案を8月末までに作成した。
    陸軍中央部では永田鉄山、鈴木貞一らが動き、関東軍では石原莞爾、
    板垣征四郎らが動くことで満洲事変の準備が整えられ、一夕会系幕僚が陸軍中央を引きずり、
    内閣を引きずって満洲事変を推進していった。



幣原外交

外務省は広東政府と何度も話し合いを行うなど国際協調を重視した幣原外交を行った。
当時の外務省の見解として幣原喜重郎外相は

「支那人は満洲を支那のものと考えているが、あれはロシアのものだった。
牛荘の領事を任命するには、ロシアの許諾が必要だった。

日本がロシアを追い出さなければ、満洲は清国領土から失われたことは間違いない。
しかし、日本は領土権は主張しない


日本人が相互友好協力の上に満洲に居住し、経済開発に参加できればよいのであって、
これは少なくとも道義的に当然の要求である。また、

中国がかりそめにも日本の鉄道に無理強いするような競争線を建設できないことは、信義上自明の理である」と述べている。

幣原外相は英米との国際協調により中国政府に既存条約を尊重することを求めようとし、
アメリカのマクマリー駐中国公使も同様の方針を本国政府に訴えていたが、
国務省内の親中派のホーンベルク極東部長によって日本との協調路線は退けられた。


事変の経過

柳条湖事件


事件直後の柳条湖の爆破現場
1931年(昭和6年)9月18日午後10時20分頃、
  • 奉天(現在の瀋陽)郊外の柳条湖付近の南満洲鉄道線路上で爆発が起きた。
    現場は、3年前の張作霖爆殺事件の現場から、わずか数キロの地点である。

    爆発自体は小規模で、爆破直後に現場を急行列車が何事もなく通過している。

    関東軍はこれを張学良の東北軍による破壊工作と発表し、直ちに軍事行動に移った。
    これがいわゆる柳条湖(溝)事件である。

    戦後のGHQの調査などにより、本事件は河本大佐の後任の関東軍高級参謀板垣征四郎大佐と、
    関東軍作戦参謀石原莞爾中佐が首謀し、軍事行動の口火とするため自ら行った陰謀であったことが判明している。

    奉天特務機関補佐官花谷正少佐、張学良軍事顧問補佐官今田新太郎大尉らが爆破工作を指揮し、
    関東軍の虎石台独立守備隊の河本末守中尉指揮の一小隊が爆破を実行した。




錦州爆撃

1931年(昭和6年)10月8日、

  • 関東軍の爆撃機12機が、
    石原の作戦指導のもと遼寧省錦州を空襲した(錦州爆撃)。

    奉天を放棄した張学良が拠点を移していた。石原は偵察目的であったとしているが、
    各機に25kg爆弾を5,6個載せて出撃し計75個投下している。南次郎陸軍大臣は、

    若槻禮次郎首相に「中国軍の対空砲火を受けたため、止むを得ず取った自衛行為」と報告した。
    関東軍は「張学良は錦州に多数の兵力を集結させており、放置すれば日本の権益が侵害される恐れが強い。

    満蒙問題を速やかに解決するため、錦州政権を駆逐する必要がある」と公式発表した。
    国際法上は予防措置は自衛権の範囲であるが、のち国際連盟により派遣されたリットン調査団は
    自衛の範囲とは呼びがたいと結論した。これによって、
    幣原の国際協調主義外交は国内外に指導力の欠如を露呈し大きなダメージを受けた。


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溥儀擁立

  • 関東軍は、国際世論の批判を避けるため、あるいは陸軍中央からの支持を得るために、
    満洲全土の領土化ではなく、傀儡政権の樹立へと方針を早々に転換した[要検証 – ノート]。

    事変勃発から4日目のことである。9月22日、天津の溥儀に決起を促し、代表者を派遣するよう連絡した。
    23日、羅振玉が奉天の軍司令部を訪れ、板垣大佐に面会して宣統帝の復辟を嘆願し、

    吉林の煕洽、洮南の張海鵬、蒙古諸王を決起させることを約束した。

    羅振玉は宗社党の決起を促して回り、鄭孝胥ら清朝宗社党一派は復辟運動を展開した。

    同日、蒙古独立を目指して挙兵し失敗したパプチャップの子ガンジュルシャップが石原中佐を訪れ、

    蒙古の挙兵援助を嘆願し、軍は武器弾薬の援助を約束した。

    特務機関長の土肥原賢二大佐は、清朝の最後の皇帝であった宣統帝・愛新覚羅溥儀に対し、

    日本軍に協力するよう説得にかかった。

    満洲民族の国家である清朝の復興を条件に、溥儀は新国家の皇帝となることに同意した。

    11月10日に溥儀は天津の自宅を出て、11月13日に営口に到着し、旅順の日本軍の元にとどまった。

    一方で関東軍は、煕洽、張景恵ら、新国家側の受け皿となる勢力(地主、旧旗人層など)に働きかけ、

    各地で独立政権を作らせた。その上で、これらの政権の自発的統合という体裁をもって、新国家の樹立を図った。



十月事件

  • 橋本欣五郎参謀本部ロシア班長ら桜会メンバーを中心に、近衛師団・第1師団より兵力を動員して、

    主要閣僚・宮中重臣らを襲撃し、荒木貞夫教育総監部本部長を首相とする軍事政権を樹立しようと企てたが、

    決行前に発覚し、10月17日、首謀者が憲兵隊に保護検束された。



若槻内閣の崩壊

  • 若槻内閣は南次郎陸相、金谷範三参謀総長らとの連携によって、関東軍の北満進出と錦州攻略を阻止し、
    満洲国建国工作にも反対していた。

    若槻内閣を見限った安達謙蔵内相は、三井、三菱、住友財閥が若槻内閣の長くないことを見込んで、

    円売りドル買いを仕掛けていたが、買い過ぎて窮地に陥っていたことを知り、

    積極財政政策を採る政友会と連合内閣を作り、財界を救済し、さらに金輸出再禁止によって巨利を得させようと考え、

    民政党と政友会の連立内閣を画策した。

    12月11日、若槻首相は閣議に出席しない安達内相に対して辞職を要求したが、安達は単独辞職を拒否したので、

    結局やむをえず総辞職を決定した。




犬養内閣の発足

若槻民政党総裁への大命再降下、犬養政友会総裁の単独内閣、
民政党と政友会による連立内閣の3つの可能性があったが、
12月13日、犬養内閣が誕生した。

犬養毅首相は荒木貞夫陸相の就任条件として、

満州問題は軍部と相協力して積極的に解決することを約束し、

森恪内閣書記官長が事変を積極的に推進した。

荒木の陸相就任には、軍事課長の永田鉄山・政友会の小川平吉ルート、

および軍事課支那班長の鈴木貞一・政友会の森恪ルートから、

犬養首相に働きかけがあった。また、蔵相には高橋是清が就任し、

金輸出再禁止(金解禁停止)を断行して、緊縮財政政策から積極財政政策に転換した。

その結果、三井財閥をはじめ各財閥は巨利を得た。

12月23日、満蒙独立国家の建設を目指す「時局処理要綱案」が陸軍によって策定され、


1932年(昭和7年)1月6日、

  • 独立国家建設を容認する、陸軍省、海軍省、
    外務省関係課長による三省協定案「支那問題処理方針要綱」が策定された。
    12月17日と27日に本土と朝鮮より満洲に兵力が増派され、

    12月28日より、錦州を攻撃し、翌年1月3日に錦州を占領した。

    1月28日、関東軍は参謀本部の承認のもとに、北満ハルピンへの出動を命じ、
    2月5日、ハルピンを占領し、日本軍は満洲の主要都市をほとんどその支配下に置いた。

    2月20日の総選挙では与党政友会が圧倒的勝利を収めた。



1931年~1933年(昭和6年)9月18日 - 満洲事変は、

中華民国奉天(現瀋陽)郊外の柳条湖で、関東軍が

南満洲鉄道の線路を爆破した事件(柳条湖事件)に端を発し、

関東軍による満洲(現中国東北部)全土の占領を経て、

1933年5月31日の塘沽協定成立に至る、日本と中華民国との間の武力紛争(事変)である。

関東軍はわずか5か月の間に満洲全土を占領し、軍事的にはまれに見る成功を収めた。

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間島(かんとう)

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親軍的政党

  • 安達謙蔵は中野正剛らと
    1932年

    国民同盟を組織し、満洲事変を引き起こした軍部に呼応し、政党内部から親軍的一国一党制を志向した。

    北一輝に触発された中野正剛は、国家社会主義を鮮明にした東方会を組織、

    親軍的政治結社として政友会・民政党などを批判した。

    無産政党である社会民衆党もまた従来の植民地朝鮮、満洲の放棄の主張から路線を変更し、満洲事変に賛同した。


    スティムソン・ドクトリン

    • アメリカの国務長官スティムソンは、
      1932年(昭和7年)1月7日に、

      日本の満洲全土の軍事制圧を中華民国の領土・行政の侵害とし、
      パリ不戦条約に違反する一切の取り決めを認めないと道義的勧告(moral suasion)に訴え、
      日本と中華民国の両国に向けて通告した(いわゆるスティムソン・ドクトリン)。



    上海市街戦

    「第一次上海事変」

    1932年(昭和7年)1月以降、

      ,li>上海市郊外に蔡廷鍇の率いる十九路軍が現れ、

      日本軍守備隊が保安防衛をおこなうなか一方的に攻撃を受け、上海で日中両軍が交戦状態となった。




    満洲国の建国  満洲国皇帝 溥儀

    1932年(昭和7年)2月初め頃には、
    関東軍は満洲全土をほぼ占領した。
    3月1日、満洲国の建国が宣言された。

    国家元首にあたる「執政」には、清朝の廃帝愛新覚羅溥儀が就いた。
    国務総理には鄭孝胥が就き、首都は新京(現在の長春)、元号は大同とされた。
    これらの発表は、東北最高行政委員会委員長張景恵の公館において行われた。
    3月9日には、溥儀の執政就任式が新京で行なわれた。

    同年3月12日、犬養毅内閣は「満蒙は中国本土から分離独立した政権の統治支配地域であり、
    逐次、国家としての実質が備わるよう誘導する」と閣議決定した。
    日本政府は、関東軍の独断行動に引きずられる結果となった。
    同年5月に五・一五事件が起き、政府の満洲国承認に慎重であった犬養は、反乱部隊の一人に暗殺された。

    1932年(昭和7年)6月14日、
    衆議院本会議において、満洲国承認決議案が全会一致で可決された。9月15日には、
    大日本帝国(斎藤実内閣)と満洲国の間で日満議定書が締結され、
    在満日本人(おもに朝鮮族日本人)の安全確保を基礎とした条約上の権益の承認と、
    関東軍の駐留が認められた。


    リットン調査団

    1932年(昭和7年)3月、中華民国政府の提訴により、
    国際連盟から第2代リットン伯爵ヴィクター・ブルワー=リットンを団長とする調査団(リットン調査団)が派遣された。

    この調査団は、

    半年にわたり満洲を調査し、9月に報告書(リットン報告書)を提出した。

    翌1933年(昭和8年)2月24日、このリットン報告をもとにした勧告案(内容は異なる)が

    国際連盟特別総会において採択され、
    日本を除く連盟国の賛成および棄権・不参加により同意確認が行われ、
    国際連盟規約15条4項および6項についての条件が成立した。

    日本の国際連盟脱退

    満洲国の存続を認めない勧告案(「中日紛争に関する国際連盟特別総会報告書」)が
    国際連盟で採択された事を受け、

    1933年(昭和8年)3月27日、日本は正式に国際連盟に脱退を表明し、
    同時に脱退に関する詔書が発布された(なお、脱退の正式発効は、2年後の1935年3月27日)。


    熱河作戦塘沽協定の締結

    塘沽協定締結
    熱河省主席湯玉麟は、満洲国建国宣言に署名したものの、
    張学良と内通し、
    約3万にのぼる反満抗日の軍隊を育成していた。
    一方、満洲国と中華民国との国境山海関では、昭和7年秋以来小競り合いが散発していたが、
    1933年1月1日、関東軍は一部をもって山海関を占領し、北支那への出口を押さえた。

    1933年春、関東軍は熱河省を掃討することを決し、
    満洲国軍主力及び第六師団、第八師団、歩兵第十四旅団、騎兵第四旅団による熱河作戦を計画した。
    2月下旬、第六師団及び騎兵第四旅団は行動を開始し、
    3月2日に凌源を、3日に平泉を、4日に承徳を陥落させ、3月中旬までに古北口、
    喜峰口付近の長城線を占領した

    1933年3月中旬、中華民国は、
    何応欽の指揮する中央軍約20万を直隷地区に進め、日本軍の南下に対抗させた。
    中華民国側は、3月下旬にはその兵力の一部を長城線の北方に進めた。
    これに対して、関東軍は、4月11日に第六師団、歩兵第十四旅団、
    歩兵第三十三旅団をもって「灤東作戦」を開始し、長城を越えて中国軍を灤東以南に駆逐し、
    19日、長城線に帰った。ところが、中国軍は撤収する日本軍を追尾して灤東地区に進出したので、
    5月8日、第六師団・第八師団は再び行動を起こし、5月12日には、灤河を渡って北京に迫った。

    1933年(昭和8年)5月31日、河北省塘沽において日本軍と中国軍との間で停戦協定が結ばれた。
    これにより柳条湖事件に始まる満洲事変の軍事的衝突は停止された。
    しかし、これは中国側が満洲国を正式承認したものではなく、
    満洲の帰属は両国間の懸案事項として残されたままであった。

    中華民国は国際連盟による1932年決議を根拠に満洲の法的帰属と
    日本による民族自決への干渉を連盟社会で弾劾する外交政策を採用し、
    国権回復運動における主要な対象を日本人問題に措置することとなる。
    日本は中華民国蒋介石政府による条約の一方的破棄とそれにもとづく満蒙地域、

    支那租界地域における中華民国行政官や軍隊組織による在留日本人への迫害を非難し、
    中国中央政府の「馬賊」に対する警察力の不足を口実とした
    日本人への殺害・暴行事件の放置に対抗するため実力組織による自衛行動を執らせることとなる。
    また満洲国の分離建国問題については、単なる新国家の承認問題として中華民国の外交的主張を無視した。


    国際連盟脱退との関係

    熱河作戦は満洲国領土を確定するための熱河省と河北省への進出作戦であった。
    陸軍中央では万里の長城以北に作戦範囲を限定し、
    悪化する欧米諸国との関係を局限して国際連盟脱退を防ごうと考えていた。

    しかし、1933年(昭和8年)2月20日に閣議決定により日本国の国際連盟脱退が決定され、
    24日にはジュネーブで松岡全権大使が国際連盟の総会議場より退場した。
    これはリットン調査団の報告を受けて24日の国際連盟総会で「中日紛争に関する国際連盟特別総会報告書」が

    決議されたが、この勧告を受けた後に熱河作戦を継続した場合、
    国際連盟規約第16条に抵触することとなり、
    勧告を無視して戦争に出た場合は連盟加盟国に対日宣戦の正当性を付与する可能性があり、
    あるいは経済制裁の正当性を与え通商・金融の関係が途絶する可能性があったためである。
    このような制裁を防ぐため、外務省では陸軍中央の脱退尚早論を押し切る形で勧告前の連盟脱退を進めることとなった。
    結果的に連盟外の米国が当初から経済制裁に反対の立場であったことや、
    連盟各国の沈黙と無視により中華民国による連盟規約第16条(経済制裁)の対日適用の要求は黙殺された。


    白系ロシア人の救済

    • 中ソ紛争における中華民国の敗北により中華民国はソ連への協力を迫られ、
      日本の情報源の一つであった白系ロシア人は

      中国内ロシア租借地である中東鉄道付属地(ハルピン)から締め出されるなど危機に陥っていた。

      しかし、満洲国が誕生すると、

      1934年に関東軍特務機関員の秋草俊が監督を務める

      白系ロシア人の人権尊重や地位向上のための満洲国政府は白系露人事務局を設置した。

      1935年には満洲国がソ連と北満鉄道讓渡協定を結んでソ連から中東鉄道及びその付属地を買収した。




    1939年5月11日 - 9月16日
    ノモンハン事件
    満州国とモンゴル人民共和国の間の国境線をめぐって発生した紛争

    1937年~1945年 - 日中戦争(支那事変)

    1941年~1945年 - 太平洋戦争(大東亜戦争、アジア・太平洋戦争)

    ソ連コミンテルンと社会共産党の卑劣な誘導に仕組まれていた大東亜戦争

    大東亜戦争が終結した4年後の
    昭和24(1949)年、建国したての支那共産党の人民解放軍が押し寄せました。
    このときの中共政府の言い分は、「我が国領土を確定する」という、実に身勝手なものでした。

    けれど、もうひとつ大切なファクターがあります。
    それが「富」です。
    建国早々にチベットを
    支那共産党は、蒋介石率いる支那国民党を武力によって倒して支那での政権を樹立した政権です。




    参考:wikipedia

    最後までお読みいただきましてありがとうございます。転載などご自由にお使いください。
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    <拡散希望> 沖縄のみなさんへ 昭和天皇が流された涙 昭和天皇の御心が届きますように。


  • ◆紀元前293年南京大虐殺の真実

    07 2013




    紀元前293

    • 【秦】(しん)軍は(ぎ)の連合軍を破るが、この時
      24万人を斬首している。

      その後も
      数万人レベルの斬首はざらで、

      最もすさまじかったのは

    ***************************************

    紀元前260

    長平の戦いである。この時、

    • 秦軍は山西省高平県の長平で45万の大軍を擁した
      趙(ちょう)軍を降伏させる戦闘中で命を落としたのは
      5万人。残りの40万人は捕虜となったが、

      の白起(はくき)将軍により
      40万人の捕虜、ほぼ全員が、生き埋めにされて処刑(坑殺)された


    ****************************************

     【秦】
     (しん)

    紀元前221
      |
    紀元前206




    • 中国史の伝統――思想弾圧・大量殺戮・粛清

      征服王朝から、初めて中国を統一した秦。

      秦の始皇帝
      歴史に名高い中国史を貫く特徴とは、思想弾圧、大量殺戮と粛清である。

      焚書(ふんしょ)・坑儒(こうじゅ)」
      (書を燃やし、儒者を坑する
      儒者を生き埋めにする))を行なった。

      大量殺戮内部粛清である。

      『史記』の『白起列伝』には、
      中国統一に至る過程でのすさまじい殺戮が記述されている。


    ****************************************

    紀元前210

    • 始皇帝は巡幸中に死亡すると、粛清の嵐が始まる。
      趙高(ちょうこう)・宦官と
      李斯(りし)・宰相(始皇帝の身辺の世話をしていた)は、

      扶蘇(ふそ)(長男)を
      自殺に追い込む(始皇帝から後継指名を受けていた)

      胡亥(こがい)(次男)を
      二世皇帝に据え、権力をほしいままにした。傀儡政権を樹立した後は、

      趙高李斯以外のグループの
      重臣を次々に殺戮。次いで

      胡亥の兄弟である
      12名の皇子を処刑し、
      10名の皇女を磔にした。ところが、
      次はさらなる内紛と粛清である。今度やられる方に回ったのは
      李斯であった。

      趙高は権力独占のために邪魔になった
      李斯を追い落とすため、謀反の罪をかけ、
      皇帝の名において逮捕させる。そして例によって

      一族皆殺しである。

      これを「族誅(ぞくちゅう)(詳細ページへ)」と言うが、
      族誅は中国史の伝統である


      凄惨な粛清はさらに続く。
      趙高は、今度は
      胡亥(二世皇帝)を自殺に追い込み

      子嬰(しえい)(始皇帝の孫)を3世皇帝に立てるが(紀元前207年)、
      既に自らの力も国の力も衰え切っており、今度は逆に
      趙高一族が
      子嬰によって
      誅殺されることになる。因果である。

      なお、

      子嬰が即位した翌年、
      紀元前206年には滅びてしまうのであるが、
      滅ぼしたのが有名な
      項羽(楚軍)と

      劉邦(漢軍)である。この時、

      項羽がやったこともすさまじい。

      項羽

      秦の首都・咸陽(かんよう)に向かう途中で造反の気配を見せた

      秦兵20万人を穴埋めにして殺している。また、

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      子嬰が降伏して秦が滅亡した後、

      項羽

      子嬰

      一族や官吏4千人を皆殺しにし

      咸陽(かんよう)の美女財宝を略奪して、さらに

      始皇帝

      墓を暴いて宝物を持ち出している。そして

      殺戮と略奪の限りを尽くした後、

      都に火をかけ、咸陽を廃墟としたのである


    *****************************************

     【漢】

    紀元前208
      |
    紀元前206



    • 【漢】(前漢)を建国

      【前漢】(ぜんかん)とする。

      を滅亡させた

      (しん)

      紀元前221年 - 紀元前206年

      • 項羽 (こうう)と 

        劉邦(りゅう ほう)

        前漢の初代皇帝の時代の漢族は滅びた

        項羽

        劉邦であったが、

        その直後から対立は始まり、楚漢戦争(そかんせんそう)が勃発。

        紀元前206年から紀元前202年にわたり、秦王朝滅亡後の政権をめぐり、

        西楚の覇王項羽と漢王劉邦との間で繰り広げられた戦争。

        「楚漢争覇」「項羽と劉邦の戦い」とも呼ばれる。

    ******************************************

    紀元前202

    • 垓下(がいか)の戦いで

      劉邦(漢軍)項羽(楚軍)をやぶり、

      劉邦

      功労者に封土と王位を与えた。しかし、

      功労者は実力者であり、天下を取った後は目ざわりでしかない。


      楚王(そおう)
      韓信(かん しん)
      梁王(りょうおう)
      彭越(ほうえつ)等

      天下統一に最も貢献した者たちは、謀反の疑いをかけられ、

      一族皆殺し、族誅された。 しかも、

      梁王・彭越

      誅殺された後、塩漬けにされ、その肉は群臣に漏れなく配られた

      「こういう目に遭うぞ」という恐怖政治の極みである


      劉邦は紀元前195年に亡くなるが、
      その時には王位についているのは、ほとんど劉氏一族の者ばかりとなっていた。

      高祖・劉邦が没して
      劉盈(恵帝)が即位すると、
      劉邦の妻・呂后(りょごう)は皇太后としてその後見にあたる。
      この呂后がまたすさまじい。まず、

      恵帝の有力なライバルであった
      高祖・劉邦の庶子である趙(ちょう)王
      如意(にょい)とその生母・
      (せき)夫人を殺害した。この時の

      呂后の殺害の仕方は、

      猟奇的などという次元をはるかに超えている。

      呂后

      夫人を奴隷とし、

      趙王如意(ちょう おう にょい)殺害後には、

      夫人の両手両足を切り落とし、

      目玉をくりぬき、薬で耳・声をつぶし、

      その上でまだ生きたまま便所に投げ入れて人?(人豚)と呼ばせたという。

      呂后は我が子である
      劉盈(恵帝)以外のほとんどの
      劉邦の息子を殺し、

      呂氏一族を要職に付け専横を欲しいままにする。

      しかし、これまた因果は巡るで、

      呂后の死後、逆に

      氏一族は

      族誅(ぞくちゅう)される側に回り、

      皆殺しされるのである。


      【漢】はこの後、

      血気盛んに領土を拡大した武帝の時代などを経て、約200年でその時代を終える。

      帝室の外戚である王莽(おうもう)が、事実上国を乗っ取り、


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     【新】
    紀元8

    • 紀元 8 年、
      漢王朝
      は皇后の一族(外戚)の王莽によって廃止され、
      王莽は自ら皇帝に即位した。この王朝は【新】という。
      王朝を建てるも、しかし、この
      【新】王朝は、

    ******************************************

    17


    • 紀元17年に始まった

      反乱の全国的な拡大により、わずか15年でその幕を閉じる。

      戦乱と飢餓による人口の激減というのはどの国においてもあったことだが、

      とりわけ中国においては甚だしい。

    *****************************************

    37

    • 37年
      劉秀【後漢】の光武帝)に
      よる天下統一で誕生した。

    *****************************************

     【後漢】
    184


    【後漢】であるが、長くは続かなかった。

    • 184

      黄巾の乱五斗米道の乱

      相次いで宗教秘密結社による反乱が起こり、

      それがきっかけとなって各地に群雄が乱立する天下大乱の時代に突入する。

      三国志』の時代の到来である。『三国志』の時代と言うと、

      血沸き肉踊るイメージがあるかもしれないが、

      現実には戦乱が打ち続く歴史上稀に見る悲惨な時代であった。

      黄巾の乱後、正史の記録には、

      「白骨山のように積み」
      「人は共喰」
      「千里に人煙を見ず」
      といった記述が多い。

       
    【後漢】の時代、

    • 人口は5000万人を超えるところまで増えた。

      それが戦乱の三国時代にどこまで減ったのか。

      なんと約十分の一になったと言われてる。事実上、それまでの

      【漢族】は滅びたと言ってよい。


    *****************************************

    【三国時代】
    (さんごくじだい)

    220
      |
    280


     

    • なお、『三国志』とは、
      【魏】(ぎ)
      【呉】(ご)
      【蜀】(しょく)の三国が争った三国時代の歴史を述べた
      歴史書三国時代という内戦時代の後、一時的に

      【晋】

      中国を統一するがわずか20年で瓦解し、再び戦乱と分裂の時代に突入する。

      【五胡十六国時代】である。

      【五胡】とは、

      【匈奴】(きょうど)
      【鮮卑】(せんぴ)
      【羯】(けつ)
      【氐】(てい)
      【羌】(きょう)の五民族を意味し、

      十六国とは北魏末期の史官・崔鴻が私撰した『十六国春秋』に基づく表現で、

      実際の国の数は16を超えた。要するに、

      従来の【漢族】が内戦により自滅的に激減した状況下で、


    ****************************************

    【五胡十六国
    時代】


    304
      
    439

    【五胡十六国時代】

    304年から439まで続き、

    様々な民族が中国の中に入り乱れ、小国を建てる時代が到来したのである。

    439年に至って

    • 従来の中華である中原から現在の北京を含む華北一帯を
      【北魏】(ほくぎ)が統一する。
      では、この
      【北魏】を打ち立てた民族は何だったのか。
         
      先の「五胡」の中の
      【鮮卑】。とは北方の遊牧民である。

      それに対して、わずかに生き残った従来の
      【漢族】南に逃れて王朝を建てた

      そのためこの時代を中国における【南北朝時代】という。


    *****************************************

    【南北朝時代】

    439
     |
    589



    • 【南北朝時代】に終止符を打ったのは

      【隋】による中国統一であるが、

      この【隋】

      【鮮卑】による王朝であった。

      【五胡十六国時代】から

      【隋】の時代にかけて、中国語は大きく変質した。

      【鮮卑】
      (中国北部に存在した遊牧騎馬民族)は文字を持たなかったため、

      話していた言語が
      テュルク系(詳細ページへ)であったか、
      モンゴル系であったか、正確には分からない。

      ただ、
      アルタイ系言語
      (北東アジア・中央アジアから東欧にかけての広い範囲で話されている諸言語)で

      あったことは、ほぼ間違いない。


    *****************************************

    601

    の天下統一の直後、

    601年
    • 鮮卑人
      陸法言という人物が、

      『切韻』という字典を編纂する。これは漢字を発音別に分類し、

      漢字の発音の標準を定めようとしたものであるが、
      そこにはアルタイ系発音の特徴が随所に見られる。このことからも、

      この時代の中国人は、すでに

      始皇帝
      劉邦の時代、
      秦・漢時代

      中国人の子孫ではなかったことが分かる。


      なお、
      五胡十六国の諸国や
      北朝、あるいは
      隋・唐は、

      既に述べた

      などと同じく
      異民族王朝であるが、

      明確な征服行為を欠くため
      「征服王朝」とは

      呼ばれず
      「浸透王朝」という用語で定義される。


    *******************************************

    【明】
    (みん)
    1368
     |
    1644
     


    • 太祖・洪武帝によるすさまじい粛清

      中国史とは抗争と断絶の歴史であることを、

      「征服王朝」「浸透王朝」その最後は、

      狂気の弾圧と粛清である


    ****************************************

    【清】
    (しん)
    1644

    1912


    清朝の時代にも大きな反乱を企てる。

    中国民族の大量殺戮と粛清の歴史をさかのぼると

    [中国史参照するといいですよ]

    最後の征服王朝
    城内の全ての人間を屠殺する


    tizu7.jpg≪拡大≫

    • 【清】(正式には大清(だいしん))、は
      清朝ともいい、

      1616年に満洲において建国され、

      1644年から1912年まで

      中国とモンゴルを支配した最後の統一王朝である。

      首都は盛京(瀋陽)、後に北京に置かれた。

      満洲族の愛新覚羅氏(アイシンギョロ氏)が建てた征服王朝


      最後の征服王朝
      1644年に都を北京に移した清は、


      中国南部に残っている明朝の残党狩りのために征服戦争

      打って出る。これがすさまじい。

      屠城(とじょう)」と言って、

      「城内の全ての人間を屠殺する」のである。


      屠城とは街中の市民全員を殺すことなのである。
         
      清の征服軍が行なった屠城で有名なものの一つは

      1644年
      「揚州屠城」(詳細ページへ)であるが、

      当時揚州は既に

      人口100万人の大都市であった。

      その都市で大虐殺が実行された。


      かろうじて生き残った

      王秀楚という人物が、

      『揚州十日記』(ようしゅうじゅうじつき)という記録を残している。


      「数十名の女たちは牛か羊のように駆り立てられて、

      少しでも進まぬとただちに殴られ、

      あるいはその場で斬殺された。道路のあちこちに幼児が捨てられていた。

      子供たちの小さな体が馬の蹄に蹴飛ばされ、

      人の足に踏まれて、内臓は泥に塗れていた。

      途中の溝や池には屍骸がうず高く積み上げられ、

      手と足が重なり合っていた」。この記録によれば、

      屍骸の数は帳簿に記載されている分だけでも

      80万人以上に達したという。




    ***************************************

    1796

    1804


    白蓮教徒の乱


    ◆本当の「南京大虐殺」、太平天国の乱◆

    • 趙烈文(ちょうれつぶん)は『能静居士日記』の中で、

      南京住民にたいする湘軍の虐殺を証言している。

      洪武帝
      朱元璋(しゅ げんしょう)
      (明の創始者であり、初代皇帝)がのし上がるきっかけとなった

      白蓮教(びゃくれんきょう)(白蓮教の信徒が起した反乱である。)




    • 清朝末期には、こうした宗教結社による反乱が相次ぐが、中でも

      死者五千万人とも
      人口の五分の一が死亡したとも言われ、

      「人類史上最大の内乱」とされるのが太平天国の乱である。

      太平天国の乱を起こしたのは、

      キリスト教系の「拝上帝会」と言う結社である

      (ちなみに、時期を前後して

      イスラム教結社の反乱である回乱も勃発しているが、

      当時から20世紀にかけて「洗回」と称する。

      支那人(漢族)は19世紀から現在に至るまで

      回族(イスラム教徒)を大量虐殺してきた。

      これを「洗回」といい、

      支那版の民族浄化(エスニック・クレンジ)である。

      19世紀末に総人口の一割もいた

      回教徒の9割が殺されたといわれる。

      イスラム教徒皆殺し運動が展開され、それによる

      犠牲者は二千万人とも推定されている)。

      「天王」と称した

      洪秀全はキリストの弟であると宣言し、

      1847年

      に拝上帝会を創設した後、またたく間に勢力を拡大した。


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    1847

    洪秀全

    キリストの弟であると宣言し、

    拝上帝会を創設した後、またたく間に勢力を拡大した。

    ****************************************

    1850

    広西省で蜂起した洪秀全は、


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    1853

    • 南京を占領
      「天京」と改めて都とし、太平天国の王朝を立てた。

      南京を陥落させた時には、
      太平天国軍は20万以上の兵力にふくれあがり、
      水陸両軍を編成するまでに至っていた。

      ものすごい勢いであるが、この進軍の過程で太平天国軍は、後世の

      毛沢東たちがやったような

      「一村一焼一殺」を日常的に行なっていた

      歴史書の記録によると、太平天国軍が湖南省になだれ込んでからは、

      湖南全域において

      「10の村の中の7、8の村が襲撃された

      いたるところで財宝が掠めとられて、地主、郷紳(素封家)の家々は

      ことごとく皆殺しにされた

      屍骸が野に横たわり、血が流れて川となった。

      湖南開省以来、未曾有の大災難」であったという。

      しかし、この略奪・殺戮が、後に太平天国自身の悲惨な最後を招く原因を作った。

      太平天国軍による「湖南草刈り」の13年後の1864年、


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    1864

    • 曾国藩(そうこくはん)率いる

      湘軍(清の正規軍ではなく

      漢族の軍隊北洋軍閥の源)は

      太平天国の首都である天京

      南京)に攻め入ったが、この時の

      大虐殺は報復とは言え、

      言語に絶するすさまじいものであった
      。後に

      天京屠城」と称されるこの

      大虐殺の実態はどういうものだったのか。

      天京を落城させた後に

      湘軍がとった行動について、

      曾国藩自身は朝廷への報告書でこう記している。

      「吾が軍は賊都の

      金陵

      南京の別称)に攻め入ってから、

      街全体をいくつかのブロックにわけて包囲した上、

      賊軍を丹念に捜し出して即時処刑を行ないました


      3日間にわたる掃蕩作戦の結果、

      賊軍10万人あまりを

      処刑しました」。

      3日間で10万人の処刑

      というだけでもすさまじいものだが、さらに常軌を逸しているのは、

      この殺戮

      賊軍だけではなく、多くの民間人にも及んだことだ。


      曾国藩の死後、幕僚の一人であった

      趙烈文(ちょうれつぶん)は

      能静居士日記』の中で、

      南京住民にたいする湘軍の虐殺を証言している

      「わが軍が金陵に入城して数日間、民間人の老弱した者、

      あるいは労役に使えない者たちは悉く斬殺され、街角のあちこちに屍骸が転がった。

      子供たちも斬殺の対象となり、

      多くの兵卒たちが子供殺しをまるで遊戯を楽しんでいるかのようにしまくった。

      婦女となると、40歳以下の者は兵卒たちの淫楽の道具となるが、

      40歳以上の者、あるいは顔があまりにも醜い者はほとんど、

      手当たり次第斬り捨てられてしまった」。こういう証言もある。



      湘軍と共に
      天京、に攻め入ったある



      外国人の傭兵が、城内での目撃談を

      英国の植民地だったインドで発行している

      新聞『インドタイムス』で語っている。



      「私は朝廷の部隊が太平天国軍の捕虜たちを

      殺戮する場面をこの目で見た。

      彼らは本当に軍の捕虜であるかどうかは定かではない。

      とにかく、

      普段は野菜売場である町の広場に、

      捕虜とされる数百人の人々が集められてきた。

      群れの中には男もいれば女もいる。

      老人もいれば子供もいるのだ。


      歩くにも無理な老婆、

      生まれたばかりの嬰児、

      懐妊している婦人の姿も見られる。

      朝廷の兵士たちはまず、

      若い女性たちを捕虜の群れの中から引きずり出した。


      彼女たちをその場で凌辱(りょうじょく)した後に、

      周りで見物している町の破落戸(ごろつき)たちの手に渡して

      輪姦させるのである。

      その間、兵卒たちはにやにや笑っているが、


      輪姦が一通り終わると、

      全裸にされた女たちの

      髪の毛を掴んで一太刀で斬り殺してしまうのだ。

      それからが男たちの殺される番である。彼らは全員、

      小さな刀で全身の肉を一片一片切り取られて殺される。

      何のためかはよく分からないが、

      心臓は、一つずつ胸の中から丁寧に抉り出されて、

      用意された容器に入れられるのである。次に、

      子供たちが母親の前で殺され、

      母親たちも同じ運命となる」。






      現在のところ、

      「天京屠城」で殺された住民たちの数は

      少なくとも10万人以上であるというのが

      歴史学上の定説となっている。これこそが、


      中国史上の本物の

      「南京大虐殺」
      なのである。

      中国史上の戦慄すべき無差別屠殺
      太平天国の乱とそれこそ本物の「南京大虐殺」
      (1853年、彼らは南京を陥落させた後に「太平天国」と称する
      自前の政権を樹立し、南京を「天京」に改称したうえで首都にした。)


      中国では、人が人を食べるのが常態と化した。

      さすがに自分の子供を食べる親はいないから、

      親は、死んだり昏睡状態に陥った子供をよその家に持っていき、

      同じような状態のよその子と交換して自分の家に持ち帰り、

      その子を自宅で解体して食べたという。

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    1928
      |
    1933

    • 毛沢東(1893年12月26日 - 1976年9月9日)は、

      1928年から、

      湖南省・江西省・福建省・浙江省の各地に革命根拠地を拡大していくが、

      その時の行動方針が

      一村一焼一殺、外加全没収」であった。

      意味は

      「一つの村では、一人の土豪を殺し、

      一軒の家を焼き払い、加えて財産を全部没収する」
      である。



      1928から1933年までの5年間で、

      一村一焼一殺」で殺された地主の総数は、

      10万人に及んだという。


      中国共産党が政権を取ると

      「一村一焼一殺」

      中国全土に徹底して行なわれることとなった。

      全土で吊るし上げにあった地主は六百数十万人。

      うち二百万人程度が銃殺された。


      共産革命はどこの国においても

      大量殺戮と略奪を伴う惨たらしいものであるが


      毛沢東(1893年12月26日 - 1976年9月9日)の

      行動を知っていくと中国史の伝統の焼き直しにも見える。



      次は粛清である。

      現代中国の粛清と言うと、文化大革命が思い起こされるだろうが、

      実際には中国共産党が勢力を拡大して行く途上においても、

      数々のすさまじい粛清が行なわれている。まず、


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    1930

    • 1930から1931年にかけての

      AB団粛清事件」。

      これは中国共産党史上、初めての大量内部粛清であるが、

      この時は7万人以上を処刑している。

      政権を奪って権力を握ると、国家レベルで大粛清

      行なわれることになった。


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    1951

    • 1951

      「反革命分子鎮圧運動」である。

      毛沢東(1893年12月26日 - 1976年9月9日)は

      「農村地帯で殺すべき反革命分子は

      人口の千分の一程度とすべきだが、

      都会での比率は人口の千分の一を超えなければならない」という

      殺人ノルマを課し、


      中国全土を反革命分子狩りの嵐が吹き荒れた。

      告発、即時逮捕、即時人民裁判、即時銃殺である。




    中国共産党の公式資料

    中国共産党 執政四十年1949~1989)』によれば、

    • 「反革命分子鎮圧運動」で

      銃殺された人数は71万人
      に上るという

      (さらに129万人が「準革命分子」として逮捕され、終身監禁された)。

      粛清・虐殺はまだ終わらない


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    1955

    1955には

    • 「粛清反革命分子運動」によって8万人を処刑している。

      思想弾圧・粛清の流れは「反右派闘争」などこの後も続き、

      その流れの中に既に述べた文化大革命があるのであるが、

      文革のひどさはよく知られるところである、

      【Youtube】で映像を見る

      文革にもつながった

      大躍進政策」について述べておこう。

      先に、

      文革は政権中枢から失脚していた、

      毛沢東(1893年12月26日 - 1976年9月9日)が、

      劉少奇からの

      政権奪還を目論んで起こした大規模な権力闘争であり大粛清であったが、

      毛沢東

      大躍進政策の失敗によって一時的失脚をもたらしたものであった。


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    1957

    195711月6日、

    • 毛沢東大躍進政策とは、

      ソ連共産党第一書記・フルシチョフは、

      ソ連が工業生産(鉄鋼・石油・セメント)および

      農業生産において15年以内にアメリカを追い越せるだろうと宣言した。

      対抗心を燃やす毛沢東は、



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    1958

    • 1958

      第二次五ヵ年計画において、中国共産党指導部は、

      当時世界第2位の経済大国であったイギリスを、

      15年で追い越す(のちには「3年」に減少)と、いう壮大な計画を立案した。


      その中心に据えられた鉄鋼などは、

      生産量を1年間で27倍にするという、あまりにも現実離れしたものであった。


      食糧も通常2.5億トンの年間生産高を、一気に5億トンに引き上げることが決められた。

      しかし、何の裏付けもないまま目標だけ、勇ましく掲げても、実現できるはずもない。



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    1959

    • 共産党政治局委員で国防相の

      彭徳懐(ほうとくかい)が

      大躍進政策の再考を求めたが、

      毛沢東が受け入れるはずもなく、

      逆に「彭徳懐反党集団」として断罪され、失脚させられる。

      (彭徳懐は、後の文革で凄まじい暴行を受け半身不随に。その後、

      監禁病室で下血と血便にまみれた状態のまま放置され死に至る)。


      これ以降、同政策に対して誰もものを言えなくなり、

      ノルマを達成できなかった現場指導者たちは水増しした成果を報告した。

      当時、全国の人民公社は穀物の生産高に応じて、

      政府に食糧の無料供出を割り当てられていた。

      「倍増」と報告された生産高によって、飢饉であるにもかかわらず、

      農民たちは倍の食糧を供出しなければならなくなったのである。

      その結果はすさまじい餓死者である。その数は、

      わずか3年間で2000万人とも5000万人とも言われている

      (中国本土では発禁となった。

      墓碑 中国六十年代大飢荒紀事実』によれば、

      人口損失は7600万人に上るとのぼるとされている)。


      最後は、人が人を食べるのが常態と化した。

      さすがに自分の子供を食べる親はいないから、

      親は、死んだり昏睡状態に陥った子供をよその家に持っていき、

      同じような状態のよその子と交換して自分の家に持ち帰り、

      その子を自宅で解体して食べたという。




      まさに、人類史上最大の人災と言えるだろう。大躍進政策の致命的な失敗により、

      さすがの毛沢東も責任を取らざるを得なくなり、

      1959年4月27日、国家主席の地位を

      劉少奇に譲ることとなった。


      そこからの復讐・粛清が文化大革命なのである。

      血で血を洗う抗争に次ぐ抗争という中国史の特徴を、

      より具体的に言えば、その特徴は、思想弾圧・大量殺戮・大粛清である。

      そして、現代中国・中華人民共和国ももちろんその性格を色濃く有している。

      毛沢東が行なった

      一村一焼一殺」と

      文化大革命は、

      数々の戦慄するようなおぞましい行為。




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    1976

    文化大革命(1966年に発動し、

    1976年)による

    破壊から一転しての国家主導による拝金主義であった。

    既に述べてきたように、に始まり、
    劉邦
    呂后
    洪武帝


    太平天国(清朝の中国で、1851年に起こった大規模な反乱)の

    洪秀全、そして

    毛沢東続くすさまじい粛清というのも、

    中国のDNAと言えるだろう


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    20世紀

    20世紀
    共産主義国家・中華人民共和国の誕生

    • そこで最大の試練を迎える。そして、さらに

      壊滅的打撃を与えたのが文化大革命である。

      「宗教はアヘン」という中国共産党が政権を奪ってから、政府は寺を壊し経典を燃やし

      僧侶や尼を強制的に還俗させたほか、他の宗教施設の破壊もずっと止めなかった



    1960年には、

    • 既に中国の宗教施設は壊滅的状況であった。

      宗教の自由を求める人達は、台湾や、英国統治下の香港に脱出して行ったので、

      中国仏教の伝統は、大陸よりも、台湾や、香港で維持されてきたと言える。

      そして文化大革命である。念のため、

      文化大革命について簡単に説明しておこう。正式にはプロレタリア文化大革命。略称「文革」。

      1966年から1977年まで続いた

      しかし、その内実は、

      政権中枢から失脚していた毛沢東が、

      劉少奇(りゅう しょうき)からの政権奪還を目的とした大規模な権力闘争であり、
      「封建的文化、資本主義文化を批判し、新しく社会主義文化を創生しよう」という

      名目で、毛沢東が政権奪還のために引き起こし、行われた改革運動、である。

      大躍進政策の失敗で影響力を喪失しつつあった毛沢東は、文化大革命を発動して権力の奪回を図った。

      劉少奇は鄧小平とともに「資本主義の道を歩む実権派」の中心とされ、毛によって打倒の標的とされた。


      死者は一千万人を超え、リンチを受けたり冤罪で投獄されたりといった被害者は
      一億人
      に及んだと言われる、

      世界史上でも例のないおぞましい大粛清であった。

      猟奇的な毛沢東による、文革前後の劉少奇(詳細ページへ)

      毛沢東のDNAを受け継ぎ日本侵略、世界人類破壊に向かう、
      中国人のDNA



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    http://www.saisei21.jp/report/2012/report-1日本再生レポートより一部参考。

    参考文献
    『中華帝国の興亡』(黄文雄著・PHP研究所)
    『読む年表 中国の歴史』(岡田英弘著・WAC)
    『中国文明の歴史』(岡田英弘著・講談社現代新書)
    『中国大虐殺史』(石平著・ビジネス社)
    『200年企業』(日本経済新聞社著, 編集・日経ビジネス人文庫)
    『百年続く企業の条件』(帝国データバンク 史料館・産業調査部 編・朝日新書)
    『情報亡国の危機 』(中西輝政著・東洋経済新報社)
    『毛沢東 大躍進秘録』(楊継縄著・文藝春秋)
    新興国情報EMeye
    Bloomberg
    中央日報
    サーチナニュース
    大紀元時報
    Wikipedia

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    1894
    (甲午)

    日本はなぜ戦争に巻き込まれていったのか
    日清戦争の始まり

    1894(甲午)に
    甲午農民戦争(こうごのうみんせんそう)は朝鮮で起きた農民の内乱である。

    この戦争の処理を巡って、

    大日本帝国と清国の対立が激化し、

    日清戦争に発展する。
    ***************************************

    1860

    1860年代から朝鮮は

    変革の時代を迎えていた。

    閔氏((びんひ・ミンビ)朝鮮の氏族の一つ 朝鮮王朝(李朝)の 高宗 の王妃。李氏朝鮮の第26代王・高宗の妃。
    明成皇后(めいせいこうごう、ミョンソンファンフ)、朝鮮王后(閔氏)とも呼ばれる)政権の重税政策、)

    両班たちの間での賄賂と不正収奪の横行、
    そして
    ***************************************


    1876


    1876年の日朝修好条規(江華島条約)をはじめとした

    閔氏政権の開国政策により外国資本が進出してくる等、

    当時の朝鮮の民衆の生活は苦しい状況であった。朝鮮政府の暴政
    これに
    ***************************************

    1880年


    1880年代以降、
    国内の動乱期を乗り越えた日本やアメリカ合衆国、西欧の列強が加わり、

    次の時代に向けた模索の中で混乱の時期を迎えていた。


    現在と何も変わっていない
    朝鮮半島人とはこういうもの
    脱亜論福沢はそう思ったのだろう

    混乱の朝鮮を清国から救おう独立させてあげよう
    等と思ったことが間違いであった
    この民族はその価値はない
    と福沢は警告していたのだ

    この人種は多民族とは別次元とみるべきだ
    歴史が証言しているに学ぼう
    決して関わらないことだ
    1880年頃からずっと日本は
    振り回されてきたのだ
    ネットの普及で日本人の多くが真実を
    やっと知らされた
    在日反日の侵略自虐史観に侵されて来た




    日本が日清戦争に勝利した後、

    清国(中国)は内乱状態に突入


    中華民国政府率いる国民革命軍と中国共産党率いる中国工農紅軍との間で行われた内戦である (wikiより抜粋)

    日中戦争が勃発した原因は、この中国の内乱に原因が有る

    日中戦争が起きる前から、

    清国滅亡以来、共産党と国民党が戦争していた
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    1927年

    これは前期
    1927年4月12日 - 1937年9月迄、つまり
    日中戦争勃発まで続いた
    ***************************************

    1946年


    さらに
    第二次世界大戦後の
    1946年3月31日 - 1950年5月1日まで戦争が続き、

    今の中国と中華民国(台湾)に別れた訳だ

    勝った共産党が『中華人民共和国』を

    破れた国民党が『中華民国(台湾)』別れた

    **************************************

    1927年


    国共内戦

    1927年7月13日、

    中国共産党は対時局宣言を発し国共合作の終了を宣言、国共内戦に突入した。

    共産党は武力闘争を開始し、南昌起義を皮切りに各地で武力蜂起を繰り返すが、
    国民党軍によって鎮圧された。

    中華民国の国家主席に就任後、蒋介石は意欲的に中国の近代化を推進する改革を行った。
    ***************************************

    1928年

    1928年には

    ドイツ軍のマックス・バウアー大佐を招聘し、軍事顧問団を形成し、

    ドイツからの最新兵器を輸入する(中独合作を参照)。また国民党の北伐は継続され、

    http://www.y-history.net/appendix/wh1503-059.html
    • 1926~28年、蔣介石指揮下の国民革命軍による北京軍閥政府打倒の軍事行動。
      当初は国共合作の下で行われたが、途中の

    • 1927年の上海クーデターで共産党が排除され、再開後は国民党単独で行い、途中日本の山東出兵などの妨害もあったが、
    • 1928年6月に北京に入城、国民革命を達成した。

    ***************************************


    1928年

    1928年6月9日には北京に入城し、北京政府を倒すことに成功した。

    他方、ソビエト連邦の支援の下、
    毛沢東が指揮する中国共産党は農村を中心として支配領域を広げていき、
    ***************************************

    1931年


    1931年には江西省瑞金に「中華ソビエト共和国臨時政府」を樹立する(Wikiより抜粋)

    日本軍の動きによって、第四次掃共戦は同年5月へと延期され、
    すでに6月には15万の兵力で共産党中央部を包囲した。
    **************************************

    1933年


    しかし共産党は遊撃戦を展開、
    1933年4月には
    蒋介石は撤退する。5月には、ドイツの元陸軍参謀総長ハンス・フォン・ゼークトがヴェッツェルの招きで上海に赴き、
    経済・軍事に関して蒋介石の上級顧問となった。

    ゼークトは「日本一国だけを敵とし、他の国とは親善政策を取ること」とも蒋介石に進言し 、

    「いまもっとも中国がやるべきは、中国軍兵に対して、日本への敵がい心を養うことだ」とも提案した。

    これをうけて蒋介石は、秘密警察組織である藍衣社による対日敵視政策をとるようになるが、しかし、

    蒋介石は対日戦よりも対共戦を優先させる。(Wikiより抜粋)


    ドイツの介入

    ドイツが日本を敵にしろと国民党軍に進言してるんだ

    当時ドイツは中国に色々な権益や利権を持っており、
    満州を手中にしたり、上海疎開で力を付けてきた日本を中国と離反させたかった

    この様にして日本は謀略によって戦争に引きずり込まれた事がわかる。

    つまり日本が積極的に中国を『侵略』したのではなく
    中国に『進出』したと表現する表現が正しい

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    1937年

    1937年、日中戦争(支那事変)が勃発する。
    ***************************************

    1937年

    1937年7月7日

    北京郊外盧溝橋で日中両軍の小規模な衝突が発生した(盧溝橋事件)。

    共産党は発生の翌日全面交戦を呼掛けたが、現地で停戦協定が結ばれ(7月11日)戦火の拡大は防がれた。

    しかしながら軍事的な衝突はその後も各地で発生し、終には上海で日中両軍は航空戦を含む全面的な戦闘状態に入った

    『盧溝橋事件』は日本軍の記録に残っている、
    中国側の執拗しつようないやがらせ砲撃による日本軍の激発

    日本軍は中国側の砲撃を我慢して、一旦は撤退しているからね

    さらに日本軍側は、中国側の和平提案を受け入れているんだ

    しかし中国側はその後も兵力を増やし、日本軍を挑発し続けた

    そして戦闘が始まった

    さらに中国国民党軍は、アメリカやイギリスに働きかけて、日本との戦争に巻き込んだ。

    これが後の太平洋戦争(正しくは大東亜戦争)である

    太平洋戦争と言う言い方は、アメリカが日本に押し付けた呼称であり

    日本政府の公式な呼称は太平洋戦争ではなく『大東亜戦争』である。



    中国は特にアメリカで凄まじい反日プロパガンダ(政治宣伝)をした

    国民政府は、米英の物資援助も入れて、精鋭部隊をつぎ込んだ全面戦争を行なった。

    アメリカは、蒋介石の妻の宋美齢による

    フランクリン・ルーズベルト大統領への強い働きかけを受けて「義勇軍」という形を取って
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    1941年

    1941年から中華民国軍に武器や軍事顧問の派遣などの形で援助を行ったほか、

    同年12月の日本との開戦後には中国共産党軍にも武器などの軍事支援を行った。


    この時にアメリカで反日プロパガンダを繰り返し、アメリカ国民をも反日に引き込んだ、

    アメリカ政府は、既に日本との戦争を正当化するために反日プロパガンダをアメリカ政府がしていた。

    中国国民党の行動は、アメリカに大義名分を与えた形になるな

    要するに第二次世界大戦中の日本は、世界的な謀略にはめられて戦争に突入したと言う訳だ


    つまり日本の『侵略戦争』ではない

    日本が侵略戦争したと言うのは、当時の戦勝国の言い分で、実際は侵略戦争ではない。

    アジアを植民地支配していた連合国にしてみれば、

    植民地に対する日本の『侵略戦争』という事なのかもしれないが。



    なぜそれに気づけなかったのか日本は
    今更ながら
    【福沢諭吉の脱亜論】

    福沢は彼等に絶望して、
    中韓と縁を切るべきだと主張したのだ
    しかし福沢諭吉の国防論は理解されなかった。

    【災いを恐れるな、正しく備えよ】
    スイス国防論に学ぼう
    立ち上がろう日本人


    実際、アメリカにもどったマッカーサー将軍は、アメリカの連邦議会において、

    『日本の戦争遂行は自衛の為の行為だった』と証言してる。



    日中戦争以前から中国は内戦状態だった事

    日中戦争は『侵略戦争』ではない事

    アメリカが大東亜戦争を開始した原因の一つが中国の謀略だった事

    少なくても『侵略戦争』だなどと中国に非難されるいわれはまったくない

    そして中国は日本に勝ってなどいない

    日本はアメリカに負けたから、中国から撤退しただけだ。

    更に
    中国に負けてないばかりか、中国共産党とはほとんど戦っていない

    第二次世界大戦後に中国の内戦が再開された時に、

    軍隊を温存した共産党軍に国民党軍が負けた。

    日本が支那事変(日中戦争)に突入する迄、『清』が崩壊した中国大陸は、各軍属に別れて内戦状態にあった。

    中国が歴史的に2千年以上、この様な国家崩壊、内戦を繰り返して来た歴史が証明している。

    日本は中国を侵略する意図なんて、全く無かったという事も。


    中国はデタラメばかり言っているということである。

    中国人は嘘の塊、嘘をつくことに恥と言う精神はないという事。

    ”人間の姿を装い、争いを好む生き物”
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    ”悪が栄えるのは、善人が何もしないからだ”
    無知は人を傷つけ苦しめるものである


    中国人の猟奇的DNA
    中国共産党は邪悪な生き物と九評では記述されている。

    英露独「日本人のルーツに韓国人は無関係だと判明した」
    ある生物と韓国人のDNAが完全一致(詳細ページへ)


    これは決して差別等ではない。
    身を守るために認識しておかなければならないことです。
    彼等は既に「ヘイト」と言う言葉を武器に日本国民から税金を巻き上げています。
    『南京問題』『慰安婦』は被害者ビジネス(タカリ嫌がらせ)と言うものがありそれによって
    日本国民から税金を巻き上げています。

    これは元寇鎌倉時代からの彼等の侵略、虐殺から
    憂患に戦い日本を守ってきた先祖があった。
    しかし近衛文麿(細川護熙の祖父)政権以来、朝日共産党の策略によって
    戦争へと引きずり込まれた。(証言記録 「ヴェノナ文書」)

    GHQの職員の多くは共産主義者でした。
    彼らは戦後の日本を本気で共産主義化しようとしていた。
    だから、共産党の犯罪者を無罪放免して、
    日教組を作らせ、同和を組織させ、反日思想をばらまいていった。

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    中国人の異様な行動が不思議であった

    仏教の教えの十戒に修羅という用語がある、人間に成りきれず、
    姿かたちは醜く争いを好む生き物とされる。生き物があると言う。

    猟奇的虐殺は中国人の伝統的DNA

    子供の頃から殺害を繰り返し見せられるとそことが平気になり、
    やがてそのことが楽しみになってしまい自ら繰り返し行う事を欲望となる。
    それがチベットなどで今日も繰り返され行われている虐殺だ。
    彼等はウイグル、チベット民族の絶滅を目的とし又日本国の絶滅も目論んでいる。

    次の動画を見るとそのことがよくが分かる。
    九評共産党 【第一評】~【第九評】中国共産党とは一体何ものか




    詐欺師、殺人者などの犯罪者に対して我々は一応の注意を払わなければ
    財産の損失や命の危険にすら及ぶ、

    それ等から
    人として生まれて来た私たち日本人の
    身を守るために必要なことであったのだが、
    人間の姿をしているという事だけで、その本当の正体を知らずに
    関わってしまったのだ。

    身を守るために認識しておかなければならないことではないのか。

    今こそ学ぼう
    【福沢諭吉の脱亜論】

    福沢は彼等に絶望して、
    中韓と縁を切るべきだと主張したのだ
    しかし福沢諭吉の国防論は理解されなかった。

    吉田松蔭 「朝鮮人の意識改革は不可能」

    福沢諭吉 「この世界に救いようのないどうしようもない民族がいる。朝鮮人だ。」

    伊藤博文 「嘘つき朝鮮人とは係わってはならない」

    新井白石 「朝鮮人は、己に都合が悪くなると平気で嘘をつく。」


    【災いを恐れるな、正しく備えよ】
    国防はこれ等の侵略国家に対する備えです
    スイス国防論に学ぼう
    立ち上がろう日本人




    本物の「南京大虐殺」外国人の傭兵が虐殺を証言 日本軍による南京大虐殺などなかった 。

    nannkinn_201705291006484af.jpg<クリックで拡大>

    南京大虐殺』 も『従軍慰安婦』も捏造は
    日本人から始まり "発信" 支那中共に働きかけ支那中共が行うプロパガンダ
    (さらに詳しく)


    「南京大虐殺」中国大陸に住む猟奇性DNAを持つ異民族国家、猟奇的虐殺略奪食人、嘘文化の歴史(さらに詳しく) 
    中華人民共和国(支那中共)の真実、建国は1949年、領土略奪のために歴史の改ざん「食人文化」虐殺を繰り返してきた歴史
    台湾出兵⇒日清戦争で、清と日本とで合意して琉球が日本の領土と明確に確定された。


    南京事件論争とは、日中戦争(支那事変)中の
    1937年(昭和12年)12月に遂行された南京戦において発生したとされる南京事件における
    虐殺の存否や規模などを論点とした論争である。論争は日中関係を背景に政治的な影響を受け ...Wikipedia

    「南京大虐殺は自分たちがやった」と告白した国民党少尉(詳細ページへ)

    「南京大虐殺物語」は、清く正しく礼儀正しくと厳しく育てられ、
    必要以上に気を使う日本人の心を萎えさせる材料として格好のネタだった。

    "南京大虐殺"は元朝日新聞記者である本多勝一記者によって作られた単語なのである。
    1971年
    • 朝日新聞の本多勝一(ほんだ かついち)という記者が書いた
      「中国の旅」が連載
      (詳細ページへ)

    1972年


    ******************************************


    中国史上の本物の「南京大虐殺」外国人の傭兵が虐殺を証言

    1864年、曾国藩(そうこくはん)率いる湘軍(清の正規軍ではなく漢族の軍隊。北洋軍閥の源)は

    太平天国の首都である 天京(南京)に攻め入った

    現在のところ、「天京屠城」で殺された住民たちの数は少なくとも10万人以上であるというのが

    歴史学上の定説となっている。これこそが、

    ◊中国史上の本物の「南京大虐殺」なのである。

    曾国藩自身は朝廷への報告書でこう記している。

    「吾が軍は賊都の金陵(南京の別称)に攻め入ってから、

    街全体をいくつかのブロックにわけて包囲した上、賊軍を丹念に捜し出して即時処刑を行ないました

    3日間にわたる掃蕩作戦の結果、

    賊軍10万人あまりを処刑しました」。
    この殺戮が賊軍だけではなく、多くの民間人にも及んだことだ。

    曾国藩の死後
    趙烈文(ちょうれつぶん)は『能静居士日記』の中で、

    南京住民にたいする湘軍の虐殺を証言している
    湘軍と共に天京に攻め入ったある外国人の傭兵が、城内での目撃談を、

    英国の植民地だったインドで発行している新聞『インドタイムス』で語っている。

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    1971年
    http://xianxian8181.blog73.fc2.com/blog-entry-8.html(一部参考)
    • 朝日新聞の本多勝一(ほんだ かついち)という記者が書いた
      「中国の旅」が連載

    1972年
    • 「中国の旅」が単行本になる。

      「南京大虐殺」があったと書き国際問題になっていく。

      1972年9月29日、田中角栄首相が訪中し、日中国交正常化の共同声明があった、

      ”日本人と中国人の関係を徹底的にブチ壊し”、
      とする向きも盛んに出ているが

      この時すでに
      中国の日本乗っ取り工作は田中角栄によって始まっていた。

      田中内閣による中日共同声明成立までの日本解放≪侵略≫(第一期)工作組は、
      事実でこの教えの正しさを証明した。と記述された秘密文書が見つかっている。
      「日本解放第二期工作要綱」 中国共産党日本侵略計画【秘密文書】(詳細ページへ)

      日本人に対する世界中の評判を奈落の底に落とすことを目的とする工作は始まっていた。



    1984年(昭和59)8月4日付の
    • 朝日新聞(西部本社版・夕刊)と翌日の全国版には、

      「日記と写真もあった」「南京大虐殺」「悲惨さ写した三枚」「宮崎の元兵士」「後悔の念をつづる」と大々的に紹介。

    1986年(61年)1月21日、
    • 朝日は「全国版」に「おわび」記事を、小さく掲載。

      「改めて本社で調べた結果、日記は現存しますが、
      記事で触れている写真3枚については南京事件当時のものではないことがわかりました。
      記事のうち、写真に関する記述は、おわびして取り消します」


    1985年
    • 消極的だった中国にごり押しして民主党の議員・田辺誠(旧社会党)が
      日本人の税金で南京に「南京大虐殺記念館」を設立。

      社会党(社民党=民主党=民進党)は拉致共謀の疑惑もある
      (この件は墓場まで持っていくと語っている)

      疑惑表記
      日中戦争初期の南京攻略戦時に、
      日本軍将校2人が日本刀でどちらが早く100人を斬るかを競ったとされる競争だが、
      日本刀を戦場に持っていったのかなぁ?
      日本刀で、人間を100人斬ることは不可能、せいぜい斬って3人との指摘もある。


      とにかく、それまでの中国側はそれ等に関することは何も言っていなかった。
      発端は朝鮮密入国者在日朝鮮人である。現在においても引き続き行われている。



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    日中戦争の始まり
    日中戦争の真実 http://www2.biglobe.ne.jp/~remnant/rekishi05.htm(詳細ページへ)


    日本は、内戦に明け暮れる中国を救おうとした
    ローマ法王も、日本の行動を支持していた

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    https://1kando.com/18068以下転載
    日本軍による南京大虐殺などなかった

    日本と中国国民党は1937年8月9日に上海で
    現地停戦協定を結ぶことになりました。

    そして、いよいよその協定締結のその日の朝
    上海で起こったのが、大山中尉虐殺事件です。


    大山虐殺事件は、和平交渉を棚上げし日本を戦争に引き込むための挑発であった。
    1937年8月9日夕刻に起こった猟奇的な大山中尉殺害事件
    大山中尉虐殺事件Ⅰ
    大山中尉虐殺事件Ⅱ
    大山中尉虐殺事件Ⅲ
    大山中尉虐殺事件Ⅳ



    この事件は海軍上海陸戦隊の大山勇夫中尉が車で走行中に、
    中国の保安隊に包囲され機関銃で撃たれて殺されたものですが

    実はそれだけではなく、射殺後、中尉を車外に引きずり出して
    頭部を青竜刀でまっ二つに割るという猟奇性も帯びていました。

    この緊急事態発生によって当日予定されていた日本と国民党との
    和平会談はご破算になってしまいました。

    事件はそれだけに止まりませんでした。

    上海に駐屯していたわずか2200名の日本の海軍陸戦隊に対し
    国民党が5万の兵力をさしむけてこれを包囲全滅させようとしたのです。

    このとき上海には
    約3万の日本人居留民がいたのです。

    そしてそれに数倍する親日家の中国人もいました。

    日本政府は上海出兵を決断しました。

    そして松井石根大将率いる10万の上海派遣軍が編成されました。

    けれどその間に中国国民党はなんと60万もの部隊を集め
    2万個もの防衛陣地をつくって まさに手ぐすねひいて
    上陸してくる日本軍を待ち受けていたのです

    このため松井大将率いる日本軍はたいへんな苦戦を強いられました。

    これが第二次上海事変ですがこの事変で日本側は
    41000名もの死傷者を出しています。

    この数は、日露戦争に次ぐ犠牲者数です。

    2ヶ月後の11月10日、ついに日本軍は上海での軍事的脅威を取り除きました。

    このときの
    イギリスの新聞の報道が残っています。

    「国民党軍の撤退によって、上海に居住する数百万の非戦闘員(市民)の危険が
    非常に小さくなった。我々は日本軍に感謝すべきである」


    それが当時の世界の客観的な反応だったのです。

    そして上海を落とした日本軍は敵の本拠地である南京へと兵を進めました。

    城の外側での激しい戦いのあと日本側は
    1週間後の何時何分に砲撃を行うとあらかじめ空から
    南京城内にビラを撒いて告知したうえで、城外に待機しました。

    清く正しく礼儀正しくと厳しく育てられ、
    必要以上に気を使う日本人の心


    南京の市民たちに十分な避難の期間を与えるためです。

    そして12月10日、総攻撃開始。

    12月13日、南京城陥落。

    14日に城内に入城した第10軍の山崎参謀は南京城の南端にある中華門から
    東端の中山門までを見分した情況を日記に記録しています。

    「南京城東部は、広漠たる空地にして都市計画の雄大さを認む」

    つまり南京城内は、なにもない広大な空き地になっていたのです。

    どういうことかというと
    日本が攻めて来ることを知った国民党軍が城内に日本軍が隠れないようにと
    市民たちを強制的に追い出しそこに火を放って何もかも燃やしてしまっていたのです。

    同じく14日の模様を城内東北部の残敵を掃討した
    佐々木第30歩兵旅団長が日記に書いてます

    「住民はひとりも顔を見せない。痩せ犬だけが無表情に歩いたり寝そべったりしていた」

    歩兵第38連隊の戦闘詳報には次のように記されています。

    「興衛および十字街付近は小集落の点在をみるも、住民は居住しあらず
    敵はこれらの家屋を ほとんど焼却し退却せり」


    また
    ニューヨークタイムズのダーディン記者
    当時の様子を「中国軍による焼き払いの狂宴」と題して次のようにレポートしています。

    「1937年12月7日、日本軍が進撃し始めた。これが中国軍による
    焼き払いの狂宴の合図となった。

    南京に向けて15マイルにわたる農村地区ではほとんどすべての建物に火がつけられた
    村ぐるみ焼き払われた。

    農業研究所、警察学校その他多数の施設が灰塵に帰した。

    火の手は南門周辺地区と下関にも向けられた

    中国軍による焼き払いの損害は優に3000万ドルにも及ぶ」


    これが実情です。

    これの、どこがどうしたら
    南京城内で日本軍が25万もの虐殺をしたことになるのでしょうか。

    中国国民党総裁の蒋介石は南京戦の始まる3日前の12月7日には
    そそくさと南京から逃げ出しています。

    蒋介石は、あれだけ準備した上海で日本軍に負けています。

    だから南京でも勝てないと踏んで逃げたのです。

    そして日本軍には軍事力では勝てないと悟った蒋介石は
    この時期から新しい対日戦闘を開始しました

    それが広告宣伝戦争(情報戦争)です。

    蒋介石は、南京陥落の日の少し前から年間300回にもわたる
    記者会見を行うようになったのです。

    これは内外のジャーナリストや外交官など30~40人の前で
    日本がいかに不当であるかを蒋介石自身が宣伝するというものです。

    日本に軍事力で勝てないからパフォーマンスで勝とうとしたのです。

    同時にこれは日本に負けて兵を失った蒋介石が新たな兵を徴用するための
    広告宣伝活動でもありました。

    要するにこのとき中国国民党は日本と戦争していたわけですから
    蒋介石は日本を非難するための宣伝材料を見つけたり、提造したりしては

    毎日記者会見をして、自分たちを正当化しまた日本軍の悪逆非道をアピールしていたのです。

    これが年間300回毎日のように行われました。

    現代中国は、日本軍が南京で虐殺を行ったと宣伝していますが
    昨今、日本の自由主義史観研究会が当時蒋介石自身が行った300回におよぶ
    すべての会見内容について詳細に分析を行いました。

    もし本当に
    日本が南京で虐殺を行っていたのなら宣伝をする蒋介石にとって
    それは格好の日本糾弾材料になったであろうからです。

    ところが300回にわたるその会見で
    日本軍による南京での虐殺の話は1回も行われていませんでした。

    要するに日本軍による
    「南京虐殺などなかった」のです。

    日本軍の占領後、南京は治安が回復し少なくとも大東亜戦争が終わるまで
    そこは日本人の若い女性が普通に市場で一人歩きしてショッピングを楽しんでも
    何ら問題が起こらない平和な街となりました

    大東亜戦争の末期、日本国内では空爆があり
    食料の供給もままならないひどい状態が続いていましたが

    南京は昭和20(1945)年夏まではきわめて平和で、食料も豊かで
    軍事的脅威やテロの危険のない安全な街であり続けたのです。

    その南京が様変わりしたのは
    終戦後、日本軍が去ったあとのことです。

    中共軍が南京を制圧し例のごとく残虐の限りを尽くし
    一般市民10~15万名という とほうもない死傷者を出しています。

    このとき
    南京市民の3人に1人が殺害されました。

    通州事件や南京での虐殺事件を起こした
    張本人が、実際にはありもしなかった日本軍による南京大虐殺なる虚構をこしらえ
    これをいまでも宣伝しているのです。

    日本人は、もう目を覚ますべきです。
    https://1kando.com/18068ここまで転載

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    人間と認識するには、余りにもおぞましい中国人の猟奇的DNA
    中国人の異様な行動が不思議であった

    仏教の教えの十戒に修羅という用語がある、人間に成りきれず、
    姿かたちは醜く争いを好む生き物とされる。生き物があるとされる。

    猟奇的な中国人のDNA
    英露独「日本人のルーツに韓国人は無関係だと判明した」キチガイ生物と韓国人のDNAが完全一致(詳細ページへ)

    これは決して差別等ではない。

    詐欺師や殺人者などの犯罪者に対して我々は一応の注意を払わなければ
    財産の損失や命の危険にすら及ぶ、

    それ等から
    人として生まれて来た私たち日本人の
    身を守るために必要なことであったのだが、

    人間の姿をしているという事だけで、その本当の存在を知らずに
    関わってしまったのだ。




    中国では、人が人を食べるのが常態と化した。

    さすがに自分の子供を食べる親はいないから、

    親は、死んだり昏睡状態に陥った子供をよその家に持っていき、

    同じような状態のよその子と交換して自分の家に持ち帰り、その子を自宅で解体して食べたという。

    まさに、人類史上最大の人災と言えるだろう。大躍進政策の致命的な失敗により、

    さすがの毛沢東も責任を取らざるを得なくなり、

    1959年4月27日、国家主席の地位を劉少奇に譲ることとなった。

    そこからの復讐・粛清が文化大革命なのである。

    文化大革命【Youtube】で映像を見る
    ◆英露独「日本人のルーツに韓国人は無関係だと判明した」キチガイ生物と韓国人のDNAが完全一致

    【閲覧注意!真実の姿】


    【日本人の真実の姿】


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    最後までお読みいただきましてありがとうございます。転載などご自由にお使いください。
    b_simple_51_2M.jpg
    <拡散希望> 沖縄のみなさんへ 昭和天皇が流された涙 昭和天皇の御心が届きますように。


    ◆紀元前293年中国人の猟奇的DNA現代も繰り返される、中国は食人、噂の文化であり、中国大虐殺の歴史は伝統 思想弾圧・大量殺戮・粛清 国会議員になった蓮舫は「華僑(毛沢東中国共産党)の一員として力を尽くす。」と述べた。

    03 2013

    中国人の猟奇的DNA

    人間を生き埋めにし、首を次々と、はねる事は日常茶飯事、
    さらには人間の手足を切り家畜として育てる人豚などと言い
    自分の子供まで食べる、食人文化。

    中国人の潜在的な猟奇性を物語る例えである。

    日本人の想像の及ぶものでは無い。

    残忍で残虐な日本人の想像も及ばない猟奇的行為が平然と中国の歴史には存在するし、
    英露独「日本人のルーツに韓国人は無関係だと判明した」ある生物と韓国人のDNAが完全一致(詳細ページへ)
    これは決して差別ではない。

    身を守るために認識しておかなければならないことではないのか。

    今こそ学ぼう
    【福沢諭吉の脱亜論】

    福沢は彼等に絶望して、
    中韓と縁を切るべきだと主張したのだ
    しかし福沢諭吉の国防論は理解されなかった。

    【災いを恐れるな、正しく備えよ】
    スイス国防論に学ぼう
    立ち上がろう日本人


    蓮舫が二重国籍にこだわり続ける理由
    中国人の潜在的な猟奇性

    現代も子孫に受け継がれる。卑劣毛沢東が行なった
    大量殺戮と粛清に次ぐ粛清
    チベット・東トルキスタン( ウイグル)で現在も行われている。


    【謝蓮舫が二重国籍にこだわり続ける理由は
    華人ではなく華僑漢民族でなければならない、
    華僑は中国国籍保有者を言い、華人は現地国籍保有者を言う。
    中国国籍保有者でも現地国に根ざした生活をしている人は華人と呼ばれます。
    したがって、二重国籍にこだわり続ける理由は、
    一つの中国国家を誇示する、中華人民共和国政府の定義を忠実に守る、
    つまり工作員であると思われても仕方ないという事。】
    その中華人民共和国政府DNAとは大量殺戮と粛清の歴史


    中国とは一つの民族の歴史ではなく、異民族王朝であるが、

    明確な征服行為を欠くため「征服王朝」とは呼ばれず「浸透王朝」という用語で定義される。

    中国大陸の民族の虐殺と言う奇異なDNAを持つ人種の「征服欲」のために、行う

    歴史の改ざんは侵略を正当化するためのプロパガンダである。

    蓮舫と言う中国人とはそういう種類のものであるという事。決して信じてはいけない。危険なものである。


    チベット人虐殺参照してください
    ウイグル人虐殺参照してください
    ウイグル ウルムチ核試験 Atom Bomb 
    ウイグルでの中国の核実験
    他人事ではない中国によるチベット人弾圧 沖縄が占領されたら次は本州
    中国が尖閣・沖縄を侵略する日

    殺戮と略奪の限りを尽くした後、都に火をかけ、咸陽を廃墟とした中国史、

    同族どうしの殺し合いに飽き足らず21世紀の現代においては、それは他国にむかっての虐殺へと変貌し。

    近年においては米軍を追い出した(これには斎藤まさし「テロ組織市民の党」も加わっている)後のフィリピン沖、

    侵略を進める中国共産党、米軍が撤退すれば、沖縄もいずれそうなるであろう事は十分に推測できる。

    本土にあっても工作活動をしている


    日本国の政治にあたって外国人賛成権、

    国土買占めなどを画策し日本弱体化をもくろんでいるのである。


    ◆民進党犯罪歴、不祥事リスト!! 次の選挙では絶対に落とそう!とにかく酷い。犯罪集団蓮舫民進党。
    民進党金の流れ2億迂回献金日本に金日成主義革命の成就が目的、
    菅直人、鳩山、鷲尾英一郎、黒岩宇洋などが多額の献金をした理由がそこにある。


    献金額が多ければ多いほど「日本に金日成主義革命が成就」を理解していることになるという事だそうだ。
    金日成は、「日本を金日成主義化する革命を起こす」ことを望んだ。 市民の党の“機関紙”に菅が寄稿している。




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    紀元前293

    • 【秦】(しん)軍は(ぎ)の連合軍を破るが、この時
      24万人を斬首している。

      その後も
      数万人レベルの斬首はざらで、

      最もすさまじかったのは

    ***************************************

    紀元前260

    長平の戦いである。この時、

    • 秦軍は山西省高平県の長平で45万の大軍を擁した
      趙(ちょう)軍を降伏させる戦闘中で命を落としたのは
      5万人。残りの40万人は捕虜となったが、

      の白起(はくき)将軍により
      40万人の捕虜、ほぼ全員が、生き埋めにされて処刑(坑殺)された


    ****************************************

     【秦】
     (しん)

    紀元前221
      |
    紀元前206




    • 中国史の伝統――思想弾圧・大量殺戮・粛清

      征服王朝から、初めて中国を統一した秦。

      秦の始皇帝
      歴史に名高い中国史を貫く特徴とは、思想弾圧、大量殺戮と粛清である。

      焚書(ふんしょ)・坑儒(こうじゅ)」
      (書を燃やし、儒者を坑する
      儒者を生き埋めにする))を行なった。

      大量殺戮内部粛清である。

      『史記』の『白起列伝』には、
      中国統一に至る過程でのすさまじい殺戮が記述されている。


    ****************************************

    紀元前210

    • 始皇帝は巡幸中に死亡すると、粛清の嵐が始まる。
      趙高(ちょうこう)・宦官と
      李斯(りし)・宰相(始皇帝の身辺の世話をしていた)は、

      扶蘇(ふそ)(長男)を
      自殺に追い込む(始皇帝から後継指名を受けていた)

      胡亥(こがい)(次男)を
      二世皇帝に据え、権力をほしいままにした。傀儡政権を樹立した後は、

      趙高李斯以外のグループの
      重臣を次々に殺戮。次いで

      胡亥の兄弟である
      12名の皇子を処刑し、
      10名の皇女を磔にした。ところが、
      次はさらなる内紛と粛清である。今度やられる方に回ったのは
      李斯であった。

      趙高は権力独占のために邪魔になった
      李斯を追い落とすため、謀反の罪をかけ、
      皇帝の名において逮捕させる。そして例によって

      一族皆殺しである。

      これを「族誅(ぞくちゅう)(詳細ページへ)」と言うが、
      族誅は中国史の伝統である


      凄惨な粛清はさらに続く。
      趙高は、今度は
      胡亥(二世皇帝)を自殺に追い込み

      子嬰(しえい)(始皇帝の孫)を3世皇帝に立てるが(紀元前207年)、
      既に自らの力も国の力も衰え切っており、今度は逆に
      趙高一族が
      子嬰によって
      誅殺されることになる。因果である。

      なお、

      子嬰が即位した翌年、
      紀元前206年には滅びてしまうのであるが、
      滅ぼしたのが有名な
      項羽(楚軍)と

      劉邦(漢軍)である。この時、

      項羽がやったこともすさまじい。

      項羽

      秦の首都・咸陽(かんよう)に向かう途中で造反の気配を見せた

      秦兵20万人を穴埋めにして殺している。また、

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      子嬰が降伏して秦が滅亡した後、

      項羽

      子嬰

      一族や官吏4千人を皆殺しにし

      咸陽(かんよう)の美女財宝を略奪して、さらに

      始皇帝

      墓を暴いて宝物を持ち出している。そして

      殺戮と略奪の限りを尽くした後、

      都に火をかけ、咸陽を廃墟としたのである


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     【漢】

    紀元前208
      |
    紀元前206



    • 【漢】(前漢)を建国

      【前漢】(ぜんかん)とする。

      を滅亡させた

      (しん)

      紀元前221年 - 紀元前206年

      • 項羽 (こうう)と 

        劉邦(りゅう ほう)

        前漢の初代皇帝の時代の漢族は滅びた

        項羽

        劉邦であったが、

        その直後から対立は始まり、楚漢戦争(そかんせんそう)が勃発。

        紀元前206年から紀元前202年にわたり、秦王朝滅亡後の政権をめぐり、

        西楚の覇王項羽と漢王劉邦との間で繰り広げられた戦争。

        「楚漢争覇」「項羽と劉邦の戦い」とも呼ばれる。

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    紀元前202

    • 垓下(がいか)の戦いで

      劉邦(漢軍)項羽(楚軍)をやぶり、

      劉邦

      功労者に封土と王位を与えた。しかし、

      功労者は実力者であり、天下を取った後は目ざわりでしかない。


      楚王(そおう)
      韓信(かん しん)
      梁王(りょうおう)
      彭越(ほうえつ)等

      天下統一に最も貢献した者たちは、謀反の疑いをかけられ、

      一族皆殺し、族誅された。 しかも、

      梁王・彭越

      誅殺された後、塩漬けにされ、その肉は群臣に漏れなく配られた

      「こういう目に遭うぞ」という恐怖政治の極みである


      劉邦は紀元前195年に亡くなるが、
      その時には王位についているのは、ほとんど劉氏一族の者ばかりとなっていた。

      高祖・劉邦が没して
      劉盈(恵帝)が即位すると、
      劉邦の妻・呂后(りょごう)は皇太后としてその後見にあたる。
      この呂后がまたすさまじい。まず、

      恵帝の有力なライバルであった
      高祖・劉邦の庶子である趙(ちょう)王
      如意(にょい)とその生母・
      (せき)夫人を殺害した。この時の

      呂后の殺害の仕方は、

      猟奇的などという次元をはるかに超えている。

      呂后

      夫人を奴隷とし、

      趙王如意(ちょう おう にょい)殺害後には、

      夫人の両手両足を切り落とし、

      目玉をくりぬき、薬で耳・声をつぶし、

      その上でまだ生きたまま便所に投げ入れて人?(人豚)と呼ばせたという。

      呂后は我が子である
      劉盈(恵帝)以外のほとんどの
      劉邦の息子を殺し、

      呂氏一族を要職に付け専横を欲しいままにする。

      しかし、これまた因果は巡るで、

      呂后の死後、逆に

      氏一族は

      族誅(ぞくちゅう)される側に回り、

      皆殺しされるのである。


      【漢】はこの後、

      血気盛んに領土を拡大した武帝の時代などを経て、約200年でその時代を終える。

      帝室の外戚である王莽(おうもう)が、事実上国を乗っ取り、


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     【新】
    紀元8

    • 紀元 8 年、
      漢王朝
      は皇后の一族(外戚)の王莽によって廃止され、
      王莽は自ら皇帝に即位した。この王朝は【新】という。
      王朝を建てるも、しかし、この
      【新】王朝は、

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    17


    • 紀元17年に始まった

      反乱の全国的な拡大により、わずか15年でその幕を閉じる。

      戦乱と飢餓による人口の激減というのはどの国においてもあったことだが、

      とりわけ中国においては甚だしい。

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    37

    • 37年
      劉秀【後漢】の光武帝)に
      よる天下統一で誕生した。

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     【後漢】
    184


    【後漢】であるが、長くは続かなかった。

    • 184

      黄巾の乱五斗米道の乱

      相次いで宗教秘密結社による反乱が起こり、

      それがきっかけとなって各地に群雄が乱立する天下大乱の時代に突入する。

      三国志』の時代の到来である。『三国志』の時代と言うと、

      血沸き肉踊るイメージがあるかもしれないが、

      現実には戦乱が打ち続く歴史上稀に見る悲惨な時代であった。

      黄巾の乱後、正史の記録には、

      「白骨山のように積み」
      「人は共喰」
      「千里に人煙を見ず」
      といった記述が多い。

       
    【後漢】の時代、

    • 人口は5000万人を超えるところまで増えた。

      それが戦乱の三国時代にどこまで減ったのか。

      なんと約十分の一になったと言われてる。事実上、それまでの

      【漢族】は滅びたと言ってよい。


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    【三国時代】
    (さんごくじだい)

    220
      |
    280


     

    • なお、『三国志』とは、
      【魏】(ぎ)
      【呉】(ご)
      【蜀】(しょく)の三国が争った三国時代の歴史を述べた
      歴史書三国時代という内戦時代の後、一時的に

      【晋】

      中国を統一するがわずか20年で瓦解し、再び戦乱と分裂の時代に突入する。

      【五胡十六国時代】である。

      【五胡】とは、

      【匈奴】(きょうど)
      【鮮卑】(せんぴ)
      【羯】(けつ)
      【氐】(てい)
      【羌】(きょう)の五民族を意味し、

      十六国とは北魏末期の史官・崔鴻が私撰した『十六国春秋』に基づく表現で、

      実際の国の数は16を超えた。要するに、

      従来の【漢族】が内戦により自滅的に激減した状況下で、


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    【五胡十六国
    時代】


    304
      
    439

    【五胡十六国時代】

    304年から439まで続き、

    様々な民族が中国の中に入り乱れ、小国を建てる時代が到来したのである。

    439年に至って

    • 従来の中華である中原から現在の北京を含む華北一帯を
      【北魏】(ほくぎ)が統一する。
      では、この
      【北魏】を打ち立てた民族は何だったのか。
         
      先の「五胡」の中の
      【鮮卑】。とは北方の遊牧民である。

      それに対して、わずかに生き残った従来の
      【漢族】南に逃れて王朝を建てた

      そのためこの時代を中国における【南北朝時代】という。


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    【南北朝時代】

    439
     |
    589



    • 【南北朝時代】に終止符を打ったのは

      【隋】による中国統一であるが、

      この【隋】

      【鮮卑】による王朝であった。

      【五胡十六国時代】から

      【隋】の時代にかけて、中国語は大きく変質した。

      【鮮卑】
      (中国北部に存在した遊牧騎馬民族)は文字を持たなかったため、

      話していた言語が
      テュルク系(詳細ページへ)であったか、
      モンゴル系であったか、正確には分からない。

      ただ、
      アルタイ系言語
      (北東アジア・中央アジアから東欧にかけての広い範囲で話されている諸言語)で

      あったことは、ほぼ間違いない。


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    601

    の天下統一の直後、

    601年
    • 鮮卑人
      陸法言という人物が、

      『切韻』という字典を編纂する。これは漢字を発音別に分類し、

      漢字の発音の標準を定めようとしたものであるが、
      そこにはアルタイ系発音の特徴が随所に見られる。このことからも、

      この時代の中国人は、すでに

      始皇帝
      劉邦の時代、
      秦・漢時代

      中国人の子孫ではなかったことが分かる。


      なお、
      五胡十六国の諸国や
      北朝、あるいは
      隋・唐は、

      既に述べた

      などと同じく
      異民族王朝であるが、

      明確な征服行為を欠くため
      「征服王朝」とは

      呼ばれず
      「浸透王朝」という用語で定義される。


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    【明】
    (みん)
    1368
     |
    1644
     


    • 太祖・洪武帝によるすさまじい粛清

      中国史とは抗争と断絶の歴史であることを、

      「征服王朝」「浸透王朝」その最後は、

      狂気の弾圧と粛清である


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    【清】
    (しん)
    1644

    1912


    清朝の時代にも大きな反乱を企てる。

    中国民族の大量殺戮と粛清の歴史をさかのぼると

    [中国史参照するといいですよ]

    最後の征服王朝
    城内の全ての人間を屠殺する


    tizu7.jpg≪拡大≫

    • 【清】(正式には大清(だいしん))、は
      清朝ともいい、

      1616年に満洲において建国され、

      1644年から1912年まで

      中国とモンゴルを支配した最後の統一王朝である。

      首都は盛京(瀋陽)、後に北京に置かれた。

      満洲族の愛新覚羅氏(アイシンギョロ氏)が建てた征服王朝


      最後の征服王朝
      1644年に都を北京に移した清は、


      中国南部に残っている明朝の残党狩りのために征服戦争

      打って出る。これがすさまじい。

      屠城(とじょう)」と言って、

      「城内の全ての人間を屠殺する」のである。


      屠城とは街中の市民全員を殺すことなのである。
         
      清の征服軍が行なった屠城で有名なものの一つは

      1644年
      「揚州屠城」(詳細ページへ)であるが、

      当時揚州は既に

      人口100万人の大都市であった。

      その都市で大虐殺が実行された。


      かろうじて生き残った

      王秀楚という人物が、

      『揚州十日記』(ようしゅうじゅうじつき)という記録を残している。


      「数十名の女たちは牛か羊のように駆り立てられて、

      少しでも進まぬとただちに殴られ、

      あるいはその場で斬殺された。道路のあちこちに幼児が捨てられていた。

      子供たちの小さな体が馬の蹄に蹴飛ばされ、

      人の足に踏まれて、内臓は泥に塗れていた。

      途中の溝や池には屍骸がうず高く積み上げられ、

      手と足が重なり合っていた」。この記録によれば、

      屍骸の数は帳簿に記載されている分だけでも

      80万人以上に達したという。




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    1796

    1804


    白蓮教徒の乱


    ◆本当の「南京大虐殺」、太平天国の乱◆

    • 趙烈文(ちょうれつぶん)は『能静居士日記』の中で、

      南京住民にたいする湘軍の虐殺を証言している。

      洪武帝
      朱元璋(しゅ げんしょう)
      (明の創始者であり、初代皇帝)がのし上がるきっかけとなった

      白蓮教(びゃくれんきょう)(白蓮教の信徒が起した反乱である。)




    • 清朝末期には、こうした宗教結社による反乱が相次ぐが、中でも

      死者五千万人とも
      人口の五分の一が死亡したとも言われ、

      「人類史上最大の内乱」とされるのが太平天国の乱である。

      太平天国の乱を起こしたのは、

      キリスト教系の「拝上帝会」と言う結社である

      (ちなみに、時期を前後して

      イスラム教結社の反乱である回乱も勃発しているが、

      当時から20世紀にかけて「洗回」と称する。

      支那人(漢族)は19世紀から現在に至るまで

      回族(イスラム教徒)を大量虐殺してきた。

      これを「洗回」といい、

      支那版の民族浄化(エスニック・クレンジ)である。

      19世紀末に総人口の一割もいた

      回教徒の9割が殺されたといわれる。

      イスラム教徒皆殺し運動が展開され、それによる

      犠牲者は二千万人とも推定されている)。

      「天王」と称した

      洪秀全はキリストの弟であると宣言し、

      1847年

      に拝上帝会を創設した後、またたく間に勢力を拡大した。


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    1847

    洪秀全

    キリストの弟であると宣言し、

    拝上帝会を創設した後、またたく間に勢力を拡大した。

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    1850

    広西省で蜂起した洪秀全は、


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    1853

    • 南京を占領
      「天京」と改めて都とし、太平天国の王朝を立てた。

      南京を陥落させた時には、
      太平天国軍は20万以上の兵力にふくれあがり、
      水陸両軍を編成するまでに至っていた。

      ものすごい勢いであるが、この進軍の過程で太平天国軍は、後世の

      毛沢東たちがやったような

      「一村一焼一殺」を日常的に行なっていた

      歴史書の記録によると、太平天国軍が湖南省になだれ込んでからは、

      湖南全域において

      「10の村の中の7、8の村が襲撃された

      いたるところで財宝が掠めとられて、地主、郷紳(素封家)の家々は

      ことごとく皆殺しにされた

      屍骸が野に横たわり、血が流れて川となった。

      湖南開省以来、未曾有の大災難」であったという。

      しかし、この略奪・殺戮が、後に太平天国自身の悲惨な最後を招く原因を作った。

      太平天国軍による「湖南草刈り」の13年後の1864年、


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    1864

    • 曾国藩(そうこくはん)率いる

      湘軍(清の正規軍ではなく

      漢族の軍隊北洋軍閥の源)は

      太平天国の首都である天京

      南京)に攻め入ったが、この時の

      大虐殺は報復とは言え、

      言語に絶するすさまじいものであった
      。後に

      天京屠城」と称されるこの

      大虐殺の実態はどういうものだったのか。

      天京を落城させた後に

      湘軍がとった行動について、

      曾国藩自身は朝廷への報告書でこう記している。

      「吾が軍は賊都の

      金陵

      南京の別称)に攻め入ってから、

      街全体をいくつかのブロックにわけて包囲した上、

      賊軍を丹念に捜し出して即時処刑を行ないました


      3日間にわたる掃蕩作戦の結果、

      賊軍10万人あまりを

      処刑しました」。

      3日間で10万人の処刑

      というだけでもすさまじいものだが、さらに常軌を逸しているのは、

      この殺戮

      賊軍だけではなく、多くの民間人にも及んだことだ。


      曾国藩の死後、幕僚の一人であった

      趙烈文(ちょうれつぶん)は

      能静居士日記』の中で、

      南京住民にたいする湘軍の虐殺を証言している

      「わが軍が金陵に入城して数日間、民間人の老弱した者、

      あるいは労役に使えない者たちは悉く斬殺され、街角のあちこちに屍骸が転がった。

      子供たちも斬殺の対象となり、

      多くの兵卒たちが子供殺しをまるで遊戯を楽しんでいるかのようにしまくった。

      婦女となると、40歳以下の者は兵卒たちの淫楽の道具となるが、

      40歳以上の者、あるいは顔があまりにも醜い者はほとんど、

      手当たり次第斬り捨てられてしまった」。こういう証言もある。



      湘軍と共に
      天京、に攻め入ったある



      外国人の傭兵が、城内での目撃談を

      英国の植民地だったインドで発行している

      新聞『インドタイムス』で語っている。



      「私は朝廷の部隊が太平天国軍の捕虜たちを

      殺戮する場面をこの目で見た。

      彼らは本当に軍の捕虜であるかどうかは定かではない。

      とにかく、

      普段は野菜売場である町の広場に、

      捕虜とされる数百人の人々が集められてきた。

      群れの中には男もいれば女もいる。

      老人もいれば子供もいるのだ。


      歩くにも無理な老婆、

      生まれたばかりの嬰児、

      懐妊している婦人の姿も見られる。

      朝廷の兵士たちはまず、

      若い女性たちを捕虜の群れの中から引きずり出した。


      彼女たちをその場で凌辱(りょうじょく)した後に、

      周りで見物している町の破落戸(ごろつき)たちの手に渡して

      輪姦させるのである。

      その間、兵卒たちはにやにや笑っているが、


      輪姦が一通り終わると、

      全裸にされた女たちの

      髪の毛を掴んで一太刀で斬り殺してしまうのだ。

      それからが男たちの殺される番である。彼らは全員、

      小さな刀で全身の肉を一片一片切り取られて殺される。

      何のためかはよく分からないが、

      心臓は、一つずつ胸の中から丁寧に抉り出されて、

      用意された容器に入れられるのである。次に、

      子供たちが母親の前で殺され、

      母親たちも同じ運命となる」。






      現在のところ、

      「天京屠城」で殺された住民たちの数は

      少なくとも10万人以上であるというのが

      歴史学上の定説となっている。これこそが、


      中国史上の本物の

      「南京大虐殺」
      なのである。

      中国史上の戦慄すべき無差別屠殺
      太平天国の乱とそれこそ本物の「南京大虐殺」
      (1853年、彼らは南京を陥落させた後に「太平天国」と称する
      自前の政権を樹立し、南京を「天京」に改称したうえで首都にした。)


      中国では、人が人を食べるのが常態と化した。

      さすがに自分の子供を食べる親はいないから、

      親は、死んだり昏睡状態に陥った子供をよその家に持っていき、

      同じような状態のよその子と交換して自分の家に持ち帰り、

      その子を自宅で解体して食べたという。



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    1928

    毛沢東は、

    1928から、
    湖南省・江西省・福建省・浙江省の各地に革命根拠地を拡大していくが、

    • その時の行動方針が

      一村一焼一殺、外加全没収」であった。

      意味は

      「一つの村では、一人の土豪を殺し、一軒の家を焼き払い、加えて財産を全部没収する」である。


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    1928
     |
    1933

    1928から1933までの5年間で、

    • 一村一焼一殺」で
      殺された地主の総数は、
      10万人に及んだという。


      中国共産党が政権を取ると

      「一村一焼一殺」

      中国全土に徹底して行なわれることとなった。

      全土で吊るし上げにあった地主は六百数十万人。

      うち二百万人程度が
      銃殺された。


      共産革命はどこの国においても

      大量殺戮と略奪を伴う惨たらしいものであるが


      毛沢東

      行動を知っていくと中国史の伝統の焼き直しにも見える。

      次は粛清である。

      現代中国の粛清と言うと、先に述べた文化大革命

      思い起こされるだろうが、

      実際には中国共産党が勢力を拡大して行く途上においても、

      数々のすさまじい粛清が行なわれている。まず、


    *************************************

    1930

    1930から

    翌31年にかけての「AB団粛清事件」。

    • これは中国共産党史上、初めての大量内部粛清であるが、

      この時は7万人以上を処刑している。

      政権を奪って権力を握ると、国家レベルで大粛清

      行なわれることになった。


    *************************************

    1951

    1951
    「反革命分子鎮圧運動」である。

    • 毛沢東

      「農村地帯で殺すべき反革命分子は

      人口の千分の一程度とすべきだが、

      都会での比率は人口の千分の一を超えなければならない」という

      殺人ノルマを課し、

      中国全土を反革命分子狩りの嵐が吹き荒れた。

      告発、即時逮捕、即時人民裁判、即時銃殺である



    中国共産党の公式資料

    中国共産党 執政四十年1949~1989)』によれば、

    • 「反革命分子鎮圧運動」で

      銃殺された人数は71万人
      に上るという

      (さらに129万人が「準革命分子」として逮捕され、終身監禁された)。

      粛清・虐殺はまだ終わらない


    *************************************

    1955

    1955には

    • 「粛清反革命分子運動」によって8万人を処刑している。

      思想弾圧・粛清の流れは「反右派闘争」などこの後も続き、

      その流れの中に既に述べた文化大革命があるのであるが、

      文革のひどさはよく知られるところである、

      【Youtube】で映像を見る

      文革にもつながった

      「大躍進政策」
      について述べておこう。

      先に、文革は政権中枢から失脚していた


      毛沢東
      劉少奇からの

      政権奪還を目論んで起こした大規模な権力闘争であり大粛清であったが、

      毛沢東
      一時的失脚をもたらしたのが大躍進政策であった。


    *************************************

    1957

    195711月6日、

    • ソ連共産党第一書記・フルシチョフは、

      ソ連が工業生産(鉄鋼・石油・セメント)および

      農業生産において15年以内にアメリカを追い越せるだろうと宣言した。



    *************************************

    1958

    対抗心を燃やす毛沢東は、

    • 1958

      第二次五ヵ年計画において中国共産党指導部は、

      当時世界第2位の経済大国であったイギリスを

      15年で追い越す(のちには「3年」に減少)という壮大な計画を立案した。


      その中心に据えられた鉄鋼などは、

      生産量を1年間で27倍にするというあまりにも現実離れしたものであった。


      食糧も通常2.5億トンの年間生産高を一気に5億トンに引き上げることが決められた。

      しかし、何の裏付けもないまま目標だけ勇ましく掲げても、実現できるはずもない。



    *************************************

    1959

    • 共産党政治局委員で国防相の

      彭徳懐(ほうとくかい)が

      大躍進政策の再考を求めたが、

      毛沢東が受け入れるはずもなく、

      逆に「彭徳懐反党集団」として断罪され、失脚させられる。

      (彭徳懐は、後の文革で凄まじい暴行を受け半身不随に。その後、

      監禁病室で下血と血便にまみれた状態のまま放置され死に至る)。


      これ以降、同政策に対して誰もものを言えなくなり、

      ノルマを達成できなかった現場指導者たちは水増しした成果を報告した。

      当時、全国の人民公社は穀物の生産高に応じて、

      政府に食糧の無料供出を割り当てられていた。

      「倍増」と報告された生産高によって、飢饉であるにもかかわらず、

      農民たちは倍の食糧を供出しなければならなくなったのである。

      その結果はすさまじい餓死者である。その数は、

      わずか3年間で2000万人とも5000万人とも言われている

      (中国本土では発禁となった。

      墓碑 中国六十年代大飢荒紀事実』によれば、

      人口損失は7600万人に上るとのぼるとされている)。


      最後は、人が人を食べるのが常態と化した。

      さすがに自分の子供を食べる親はいないから、

      親は、死んだり昏睡状態に陥った子供をよその家に持っていき、

      同じような状態のよその子と交換して自分の家に持ち帰り、

      その子を自宅で解体して食べたという。




      まさに、人類史上最大の人災と言えるだろう。大躍進政策の致命的な失敗により、

      さすがの毛沢東も責任を取らざるを得なくなり、

      1959年4月27日、国家主席の地位を

      劉少奇に譲ることとなった。


      そこからの復讐・粛清が文化大革命なのである。

      血で血を洗う抗争に次ぐ抗争という中国史の特徴を、

      より具体的に言えば、その特徴は、思想弾圧・大量殺戮・大粛清である。

      そして、現代中国・中華人民共和国ももちろんその性格を色濃く有している。

      毛沢東が行なった

      一村一焼一殺」と

      文化大革命は、

      数々の戦慄するようなおぞましい行為。




    *********************************************

    1976

    文化大革命(1966年に発動し、

    1976年)による

    破壊から一転しての国家主導による拝金主義であった。

    既に述べてきたように、に始まり、
    劉邦
    呂后
    洪武帝


    太平天国(清朝の中国で、1851年に起こった大規模な反乱)の

    洪秀全、そして

    毛沢東続くすさまじい粛清というのも、

    中国のDNAと言えるだろう


    **************************************

    20世紀

    20世紀
    共産主義国家・中華人民共和国の誕生

    • そこで最大の試練を迎える。そして、さらに

      壊滅的打撃を与えたのが文化大革命である。

      「宗教はアヘン」という中国共産党が政権を奪ってから、政府は寺を壊し経典を燃やし

      僧侶や尼を強制的に還俗させたほか、他の宗教施設の破壊もずっと止めなかった



    1960年には、

    • 既に中国の宗教施設は壊滅的状況であった。

      宗教の自由を求める人達は、台湾や、英国統治下の香港に脱出して行ったので、

      中国仏教の伝統は、大陸よりも、台湾や、香港で維持されてきたと言える。

      そして文化大革命である。念のため、

      文化大革命について簡単に説明しておこう。正式にはプロレタリア文化大革命。略称「文革」。

      1966年から1977年まで続いた

      しかし、その内実は、

      政権中枢から失脚していた毛沢東が、

      劉少奇(りゅう しょうき)からの政権奪還を目的とした大規模な権力闘争であり、
      「封建的文化、資本主義文化を批判し、新しく社会主義文化を創生しよう」という

      名目で、毛沢東が政権奪還のために引き起こし、行われた改革運動、である。

      大躍進政策の失敗で影響力を喪失しつつあった毛沢東は、文化大革命を発動して権力の奪回を図った。

      劉少奇は鄧小平とともに「資本主義の道を歩む実権派」の中心とされ、毛によって打倒の標的とされた。


      死者は一千万人を超え、リンチを受けたり冤罪で投獄されたりといった被害者は
      一億人
      に及んだと言われる、

      世界史上でも例のないおぞましい大粛清であった。

      猟奇的な毛沢東による、文革前後の劉少奇(詳細ページへ)

      毛沢東のDNAを受け継ぎ日本侵略、世界人類破壊に向かう、
      中国人のDNA



    *********************************************



    http://www.saisei21.jp/report/2012/report-1日本再生レポートより一部参考。

    参考文献
    『中華帝国の興亡』(黄文雄著・PHP研究所)
    『読む年表 中国の歴史』(岡田英弘著・WAC)
    『中国文明の歴史』(岡田英弘著・講談社現代新書)
    『中国大虐殺史』(石平著・ビジネス社)
    『200年企業』(日本経済新聞社著, 編集・日経ビジネス人文庫)
    『百年続く企業の条件』(帝国データバンク 史料館・産業調査部 編・朝日新書)
    『情報亡国の危機 』(中西輝政著・東洋経済新報社)
    『毛沢東 大躍進秘録』(楊継縄著・文藝春秋)
    新興国情報EMeye
    Bloomberg
    中央日報
    サーチナニュース
    大紀元時報
    Wikipedia


    最後までお読みいただきましてありがとうございます。転載などご自由にお使いください。
    b_simple_51_2M.jpg
    <拡散希望> 沖縄のみなさんへ 昭和天皇が流された涙 昭和天皇の御心が届きますように。


    ■夏(か)紀元前2070年「南京大虐殺」は捏造だった 南京大虐殺の真実中国人の領土略奪のために歴史の改ざん「食人文化」虐殺を繰り返してきた歴史

    02 2013

    「南京大虐殺」中国大陸に住む猟奇性DNAを持つ異民族国家、猟奇的虐殺略奪食人、嘘文化の歴史 ◆中華人民共和国の真実、建国は1949年、領土略奪のために歴史の改ざん「食人文化」虐殺を繰り返してきた歴史

    ◆中華人民共和国の真実、建国は1949年、
    領土略奪のために歴史の改ざん「食人文化」虐殺を繰り返してきた歴史


    中国大陸種族とは「食人文化」虐殺を繰り返してきた歴史が証明している。

    日本人種族は、民族同士が殺しあう中国大陸人種とは全く異なる民族であるということを区別し認識しておかなくてはいけない。

    民族同士が殺しあう中国人種との関わり方は要注意であるということ。
    もちろん日本を侵略を企み、侵害、している中韓朝へのODAの見直しは1日も早く行って欲しい事である。
    日本人種族とは民族同士が殺しあう中国大陸人種とは全く異なる民族である。

    新帝の即位後にその生母を殺すことが通例であった。猟奇的虐殺略奪食人、嘘文化の歴史、異民族国家。
    もはや人としてどうなのかと言う疑問でしかない。
    修羅とは人の姿を装う生き物。
    中国人の猟奇的DNA
    英露独「日本人のルーツに韓国人は無関係だと判明した」ある生物と韓国人のDNAが完全一致(詳細ページへ)

    これは決して差別等ではない。現実の事だ。

    【閲覧注意!真実の姿】



    2010年から施行された中華人民共和国の法律(詳細ページへ)

    中国人の異様な行動が不思議であった

    仏教の教えの十戒に修羅という用語がある、人間に成りきれず、
    姿かたちは醜く争いを好む生き物とされる。生き物があるとされる。

    詐欺師、殺人者などの犯罪者に対して我々は一応の注意を払わなければ
    財産の損失や命の危険にすら及ぶ、

    それ等から
    人として生まれて来た私たち日本人の
    身を守るために必要なことであったのだが、
    人間の姿をしているという事だけで、その本当の存在を知らずに
    関わってしまったのだ。

    身を守るために認識しておかなければならないことではないのか。

    今こそ学ぼう
    【福沢諭吉の脱亜論】 (詳細ページへ)

    福沢は彼等に絶望して、
    中韓と縁を切るべきだと主張したのだ
    しかし福沢諭吉の国防論は理解されなかった。

    【災いを恐れるな、正しく備えよ】
    スイス国防論に学ぼう(詳細ページへ)
    立ち上がろう日本人


    本多勝一(詳細)朝日新聞記者によるレポート記事「中国の旅」によって
    「朝日新聞は数多くあったはずの抗議や反論を軽んじ、
    『中国の旅』に実名で書かれた人々の名誉を傷つけ、日本人に大虐殺のぬれぎぬを着せた」
    (詳細ページへ)


    中国人が必ず想像する事とは、
    人間を生き埋めにし、首を次々と、はねる事は日常茶飯事、
    さらには人間の手足を切り家畜として育てる人豚などと言った。

    南京大虐殺などは日本侵略の先駆けプロパガンダである。コミンテルンは生きている。

    残忍で残虐な日本人の想像も及ばない猟奇的行為が平然と中国の歴史には存在するし、

    中国は噂の文化であり、マスコミよりも噂や人づての話を信じる土壌があるのである
    中国人の潜在的な猟奇性を物語る例えである。

    日本人の想像の及ぶものでは無い。


    なぜ彼らは日本を歪める貶めるのか

    悪の枢軸略奪国家中国とテロ国家朝鮮
    共産主義者は人類の敵。
    日本共産党は公安調査庁の監視対象である。(詳細ページへ)

    中国とは食人、領土の略奪、虐殺、粛清、嘘、改ざんを繰り返している民族である。
    中国4000年の“抗争と断絶”食人、血で血を洗う虐殺、思想弾圧・大量殺戮・粛清の歴史


    参考資料
        



    • 1636年 ◆◆(しん)は、清朝(しんちょうともいう)、満洲において建国、中国を支配した最後の統一王朝

    • 1644年~1912年まで(268年間)中国の歴史上では、征服王朝の一つに数えられる。
      首都は盛京(瀋陽)、後に北京に置かれた。

    • 1912年~1949年10月 中華民国建国
      (1912年辛亥革命により孫文が清朝を倒して建国した共和国、
      辛亥革命の翌年、孫文が臨時大総統に就任首都は南京)

      中国大陸でアジアで2番目の民主共和制国家樹立され中国大陸を支配。


    • 1949年-現在 ◆中華人民共和国建国◆(ちゅうかじんみんきょうわこく)

    • 1949年10月1日に建国された中国の社会主義国家。その歴史は、国家指導者の指導理論、路線、方針、政策によって、二つの時代に分類する事ができる。

      毛沢東時代(1949年 - 1978年)
      鄧小平時代(1978年 - )



    東京裁判をいいことに中朝韓の密入国者により起きた、
    日本国民に蔓延した、日教組、教育、政治家、新聞社、TV局などに侵入した中朝韓工作員による
    自虐史観の呪縛から日本国民は自ら解放しなければなりません。


    中国の冊封体制下

    中国には伝統的外交政策(中国の冊封体制下)というものがあって、
    中国が勝手に(嘘、ねつ造もある)、中国側から国を描いたもの。

    「固有の領土」というのはあくまで法律とか条約とかの話であって、
    歴史学にその裏付けみたいなものはない。

    「○○は固有の領土である」というのは、「○○は神聖不可侵である」とか
    「○○は戦争を放棄する」といったものと同様、政治的な宣言に過ぎない。

    そういう見解は、かつて琉球国が清朝と册封関係にあったことを根拠にしようとしているようですが、
    琉球は明治政府によって日本に併合されましたし、また清朝と現在の中華人民共和国は別です

    沖縄は現在日本の領土であって、中華人民共和国の領土ではありません。

    それに冊封体とは
    こちらから冊封を求めなければ、中国側にそれを強制する力は当然無く

    国境を接していた朝鮮と、海を隔てた日本とでは、中国が及ぼせる影響力は全く違う、という事でしょう。

    琉球も同じ事で、いわゆる琉球処分に対しては、清もかなり反発したらしいのですが、

    実力行使する力はなく、そのままとなりました。

    形式上はそのとおりですが、実効支配をしていたのは薩摩藩です。

    清に限らず中国は海洋に対する関心が殆どなく、

    水軍と言ってもそれは主として長江での戦闘を前提にした装備であり、

    太平洋の荒波を越えて侵攻できる装備は保有していませんでした。

    また、当時の清はアヘン戦争にやぶれて大変な国難に遭遇しており、

    琉球に軍を派遣することはできないし、そんなことを考える高官は皆無だったでしょう。

    冊封と言っても朝貢して来た使節をねぎらい、

    莫大な贈り物をすることで面子を保つことだけがその関係だったのですから、

    使節を送って来なくなったからと言って懲罰の遠征などはやった例は皆無です。

    むしろそれは経費がかからなくなってホッとしているという面があるのです。

    日本の遣唐使にそんなに度々来るなと愚痴ったという話も残っています。

    当時の清の国情を考えれば武力介入はできなかったということですか。

    清もこれ以後日本を警戒して北洋艦隊に力を入れるわけですよね。

    台湾出兵⇒日清戦争で、清と日本とで合意して琉球が日本の領土と明確に確定された。

    領土関係のことを言い出したら、

    少なくとも室町幕府の「日本国」は、明朝と形式的にはその関係にあったわけです。

    清にさかのぼって沖縄が中国の「固有の領土」なら、

    明にさかのぼって日本(北海道のぞく)だって中国の「固有の領土」だし、

    モンゴル帝国にまでさかのぼればロシアの大部分だって中国の「固有の領土」になってしまう。

    イタリア人やマケドニア人とか含め、みんながユダヤのシオニストみたいな主張をはじめたらどうなりますか。

    中国皇帝を頂点とした朝貢冊封体制は中国共産党毛沢東からは崩壊し、

    人民戦争理論、暴力革命・武装闘争肯定と平和革命否定、階級闘争絶対化という

    領土の略奪、虐殺、思想弾圧・大量殺戮・粛清の反知性主義となってしまったようだ。

    中国国民の正体。

    【今日のチベットは明日の日本】
    危険【外国人参政権】=三国人侵略法案(詳細)


    チベット 16歳の少女が焼身自殺 彼女の最後の言葉は… 「チベットに自由を」(詳細ページへ)

    民進党は隙あらば成立させようと、何度も言葉をすり替え工作している。
    これが成立すれば瞬く間に中国傀儡政権となり中国の侵略は成立する。実に恐ろしいことだ。要注意!

    ≪災いを恐れるな、正しく備えよ≫スイス国防論に学ぼう。【詳細を読む】


    「スイス国防論に学ぼうⅡ」(詳細ページへ)
    【重要】永世中立国スイスの民間防衛に学ぶ 現実的平和主義(詳細ページへ)

    ◆中華人民共和国の法律国防動員法とは
    【拡散希望】ぜひ読んでください。https://www35.atwiki.jp/kolia/pages/60.html

    2010年から施行された中華人民共和国の法律(詳細ページへ)
    中国で施行される国防動員法とは 有事の際に「全国民が祖国を防衛し侵略に抵抗する・・・」。

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    夏→殷→周→春秋戦国→秦→前漢→新→後漢→三国時代→普→五胡十六国時代→南北朝時代→隋→唐→五代十国→遼→北宋→南宋→元→明→清→中華民国→中華人民共和国


    china.jpg  夏王朝1216



    ■夏(か)紀元前2070年頃 - 紀元前1600年
    ka.png
    出典upload.wikimedia.org
                                                                                                                                              


    中国最古とされる伝説の王朝。
    近年見直しがされてきているが、まだ伝説上。
    濃い部分が夏の領域。
     


    ■殷(いん)紀元前17世紀頃 - 紀元前1046年
    in.jpg
    出典ja.wikipedia.org


    夏王朝を滅ぼして王朝を立てたとされ、考古学的に実在が確認されている最古の王朝である。最終的に紀元前11世紀に周に滅ぼされた。商(しょう)とも言われる。



    ■周(しゅう)紀元前1046年頃 - 紀元前771年
    syu.gif
    出典upload.wikimedia.org


    西周王朝、この時代、領土は点と点とを結んだもので面領域ではない。よって周王朝の勢力領域を確定するのは困難であるので領域は出来ない。



    ■春秋戦国(しゅんじゅうせんごくじだい)紀元前770-紀元前221年
    syunnjyuu.png
    出典upload.wikimedia.org



    戦国の七雄が活躍した時代

     韓(紀元前403年 - 紀元前230年)
     趙(紀元前403年 - 紀元前228年)
     魏(紀元前403年 - 紀元前225年)
     楚(? - 紀元前223年)
     燕(紀元前1100年ごろ - 紀元前222年)
     斉(紀元前386年 - 紀元前221年)
     秦(? - 紀元前206年)



    ■秦(しん)紀元前221年 - 紀元前206年
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    出典upload.wikimedia.org


    紀元前241年には、趙、楚、魏、韓、燕の五カ国連合軍を撃退した。紀元前223年に秦最大の敵であった楚を滅亡させ、燕を滅ぼし、紀元前221年に斉を滅ぼし中国を統一し、政は自ら皇帝(初めての皇帝なので、始皇帝という)を名乗った。この皇帝の称号は、中国の伝説上の聖王である三皇五帝からとったものである。




    ■前漢(ぜんかん)紀元前206年 - 8年
    zennka.jpg
    出典upload.wikimedia.org


    秦滅亡後の楚漢戦争(項羽との争い)に勝利した劉邦によって建てられ、長安を都とした。
    7代武帝の時に全盛を迎え、その勢力は北は外蒙古・南はベトナム・東は朝鮮・西は敦煌まで及んだ




    ■新(しん)8年 - 23年
    新前漢の外戚であった王莽が前漢最後の皇太子の孺子嬰より禅譲を受けて立てた。成帝の時、王莽は新都侯(新都は荊州南陽郡に在る)に封じられたことにより国号を新とした。

    周の時代を理想とした政策を行なったが、その理想主義・復古主義的な政策は当時の実情に合っておらず、国内は混乱。また、匈奴や高句麗に対して高圧的な態度を取ったためにこれらの離反を招くなど、その統治は失敗に終わり、国内には不満をもつものが多くなった。



    ■後漢(ごかん)25年 - 220年
    gokan.jpg
    出典upload.wikimedia.org



    漢王朝の皇族劉秀(光武帝)が、王莽に滅ぼされた漢を再興して立てた。都は洛陽(当時は雒陽と称した。ただし後漢最末期には長安・許昌へと遷都)。五代の後漢(こうかん)と紛らわしいので、中国では東漢と言う(この場合、長安に都した前漢を西漢という)。



    ■三国時代(さんごくじだい)220年-280年
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    出典upload.wikimedia.org


    広義では黄巾の乱の蜂起(184年)による漢朝の動揺から、西晋による中国再統一(280年)までを指す。

    229年までに魏(初代皇帝:曹丕)、蜀(蜀漢)(初代皇帝:劉備)、呉(初代皇帝:孫権)が成立、中国国内に3人の皇帝が同時に立った。三国時代については、陳寿が著した『三国志』、明代に書かれた『三国志演義』および、さらに後世の三国時代を扱った書物によって、広く知られている。



    ■晋(しん)265年 - 316年
    sin265.png
    出典upload.wikimedia.org




    国号は単に晋だが、建康に遷都した後の政権(東晋)に対して西晋と呼ばれる。



    ■五胡十六国時代(ごこじゅうろっこくじだい)304年-439年
    h.jpg
    出典img.westatic.com


    304年の漢(前趙)の興起から、439年の北魏による華北統一までを指す。五胡十六国(ごこじゅうろっこく)は、当時、中国華北に分立興亡した民族・国家の総称である。実際の国の数は16を超える。




    ■南北朝時代(なんぼくちょうじだい)
    北魏・宋
    北魏・斉

    北魏の前身は代国であり、その中枢部分は鮮卑拓跋部である。代国は前秦の苻堅により一旦は滅ぼされるが、苻堅が淝水で大敗したことをきっかけに再興され、その後は順調に勢力を拡大し、439年に第3代太武帝の下で華北を統一。

    北魏内部で、鮮卑の習俗を守ろうとする勢力と、鮮卑の習俗を捨てて中国化を進めようとする勢力との争いが起きるようになる。中国化を進めようとする勢力の中心となったのは、主に漢民族出身の者たちである。彼らにとっては中国化が進めば自らの立場が有利になるということでもあり、また漢が文化的に異民族に勝利したという結果によって、見下していた異民族に支配される屈辱を晴らすことにもなる。この漢化派の代表が漢人の崔浩である。崔浩は外来宗教である仏教を排撃するために、道教教団の教祖寇謙之と手を結んで太武帝に廃仏(仏教弾圧、三武一宗の廃仏の第一)を行わせた。また崔浩は漢人官僚を多く登用するなど漢化を推し進めたが、強引過ぎる漢化は鮮卑派の反感を買い、450年に誅殺される。その後の北魏では太武帝が暗殺され、しばらくの間は混乱が続く。
    この混乱を収めたのが文明皇后(馮太后)である。文明皇后は第5代献文帝の乳母で、466年に政権を握っていた乙渾を排除し、献文帝を擁して垂簾政治を始める。後に献文帝に長男の宏(後の孝文帝)が生まれると、一旦は表舞台から引き下がるが、孝文帝の生母を殺したことで献文帝と対立し、これを廃位して孝文帝を擁立した。北魏では外戚対策として、新帝の即位後にその生母を殺すことが通例であった。文明皇太后は引き続き垂簾政治を行い、班禄制・三長制・均田制などの諸制度を実行して、中央集権化・漢化を推し進めた。

    中国史において、後漢末期の黄巾の乱からはじまり、隋が中国を再び統一するまで、中国に王朝が割拠していた時期を表す(184年-589年)。なお、長江中下流域(江南)における六朝時代がほぼこの時期と対応している。

    439年から589年の隋による南北統一までを南北朝時代と呼ぶ。




    ■隋(ずい)581年 - 618年
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    魏晋南北朝時代の混乱を鎮め、西晋が滅んだ後分裂していた中国をおよそ300年ぶりに再統一した。

    しかし第2代煬帝の失政により滅亡し、その後は唐が中国を支配するようになる。



    ■唐(とう)618年 - 907年
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    690年に唐王朝は廃されて武周王朝が建てられたが、705年に武則天が失脚して唐が復活したことにより、この時代も唐の歴史に含めて叙述することが通例である。



    ■五代十国時代:五代(ごだいじっこくじだい:ごだい)
    五代十国(923年)kahoku
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    華北を統治した5つの王朝

     後梁 朱全忠 907年 - 923年
     後唐 李存勗 923年 - 936年
     後晋 石敬瑭 936年 - 946年
     後漢 劉知遠 947年 - 950年
     後周 郭威  951年 - 960年



    ■五代十国時代:十国(ごだいじっこくじだい:じっこく)
    五代十国(923年)kahoku
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    中南北の一部を支配した地方政権

     前蜀  王建   907年 - 925年
     後蜀  孟知祥 934年 - 965年
     呉   楊行密  902年 - 937年
     南唐  李昪   937年 - 975年
     荊南  高季興 907年 - 963年
     呉越  銭鏐   907年 - 978年
     閩   王審知  909年 - 945年
     楚   馬殷   907年 - 951年
     南漢  劉隠   909年 - 971年
     北漢  劉崇   951年 - 979年



    ■遼(りょう)916年 - 1125年
    宋・遼時代
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    遼朝(りょうちょう)ともいい、内モンゴルを中心に中国の北辺を支配した契丹人(キタイ人)耶律氏(ヤリュート氏)の王朝。




    ■北宋(ほくそう)960年 - 1127年
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    中国の王朝。趙匡胤が五代最後の後周から禅譲を受けて建てた。国号は宋であるが、金に開封を追われて南遷した後の南宋と区別して北宋と呼び分けている。北宋期の首都は開封であった。



    ■南宋(なんそう)1127年 - 1279年
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    中国の王朝の一つ。趙匡胤が建国した北宋が、女真族の金に華北を奪われた後、南遷して淮河以南の地に再興した政権。首都は臨安(現杭州)であった。




    ■元(げん)1271年-1368年
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    中国とモンゴル高原を中心とした領域を支配した王朝である。正式の国号は大元(だいげん)で、元朝(げんちょう)とも言う。



    ■明(みん)1368年 - 1644年
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    明(みん、1368年 - 1644年)は中国の歴代王朝の一つである。明朝あるいは大明とも号した。

    朱元璋が元を北へ逐って建国し、滅亡の後には清が明の再建を目指す南明政権を制圧して中国を支配した。




    ■清(しん)1644年-1912年
    清
    出典upload.wikimedia.org


    清(しん)は、清朝(しんちょう)ともいい、1636年に満洲において建国され、1644年から1912年まで中国を支配した最後の統一王朝である。中国の歴史上では、征服王朝の一つに数えられる。首都は盛京(瀋陽)、後に北京に置かれた。




    ■中華民国(ちゅうかみんこく)1912年-1949年
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    出典geibundo.sakura.ne.jp



    1912年に中国に樹立されたアジア最初の共和制国家である中華民国が中国大陸を支配していたのは1949年10月まで




    ■中華人民共和国(ちゅうかじんみんきょうわこく)
    1949年-現在


    出典www.google.co.jp

    1949年10月1日に建国された中国の社会主義国家。その歴史は、国家指導者の指導理論、路線、方針、政策によって、二つの時代に分類する事ができる。

    毛沢東時代(1949年 - 1978年)
    鄧小平時代(1978年 - )





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    ■南京「30万人主導したのは漢族「モンゴル人30万人」を虐殺。

    01 2013

    主導したのは漢族「モンゴル人30万人」を虐殺。

    中国の謀略・弾圧・侵略の歴史 人権弾圧、チベット、ウイグル、侵略、弾圧、沖縄,占領

    中国の謀略・弾圧・侵略の歴史
    人権弾圧、チベット、ウイグル、侵略、弾圧、沖縄,占領
    これだけは知っておきたい日中問題、チベット、ウイグル等への侵略と弾圧

    [これだけは知っておきたい日中問題20]から、抜粋致しました。

    2010年(平成二十二年)の中国の国内総生産(名目GDP)は、戦後初めて日本を上回り、
    中国は日本を抜き去って、米国に次ぐ世界第二位の経済大国に成長しました。しかし、
    中国の未来は前途洋々かといえば、とてもそんな楽観の出来る情勢ではありません。

    中国各地では民衆の抗議行動や暴動が頻発しており、
    胡錦藩政権は2008年末から再び言論・思想統制の強化に乗り出しています。
    共産党独裁体制の終結を求める「零八憲章」を起草し、ノーベル賞の劉暁彼氏の身柄を拘束したほか、

    「軍事闘争の準備を深化させ、戦争以外の軍事行動能力を強化し、
    社会の安定維持に努めよ」と軍に指示するなど、国内の緊張は一挙に高まっています。
    このままでは民主化運動を徹底的に弾圧した天安門事件の二の舞となる恐れさえ、なしとしません。

    国内問題の矛盾を転嫁すべく、台湾併合への動きも一層加速するでしょう。

    ※311での支援はほとんど無く、子弟を残し中国に帰国する者が多数で、中国軍人が日本国内を視察してまわりました。
    日本解放第二期工作要綱 [李春光スパイ事件])

    南京「30万人」固執する中国は「モンゴル人30万人」を虐殺。 2015/01/23 : 産経

    中国が南京事件犠牲者「30万人」に固執しているが、中国現代史のもう一つの「30万人」を見ておこう。

    1966年から中国で吹き荒れた文化大革命で、
    モンゴル人に対してなされたとされる事例である。

    主導したのは漢族

    欧米の研究者は、拘束されたモンゴル人約50万人、うち殺害された者10万人。
    殺害された者と釈放され自宅に戻ってから亡くなった人の合計は「30万人」。


    • 内モンゴル自治区政府幹部・ジェリム盟出身のアムルリングイは、
      地面に押さえつけられて、真っ赤に焼いた鉄棒を肛門に入れられ、鉄釘を頭に打ち込まれました。

    • あるモンゴル人は、マイナス40度まで下がるモンゴル高原の冬に、
      膝まで水を満たした『水牢』に入れられ、その足は水とともに凍ってしまいました。

    • ブタやロバとの性行為を強制する、燃えている棍棒を陰部に入れるなど、
      中国人たちはおよそ人とは思えない残虐な行為を行っていました。

    • 妊娠中の女性の胎内に手を入れて、その胎児を引っ張り出すという凄惨な犯罪も行われ、
      中国人たちは、これを『芯を抉(えぐ)り出す』と呼んでいました。


    楊氏は[狂暴国家 中国の正体]で、モンゴル人にとって文化大革命は
    ジェノサイド=民族抹消行為だったとしている。


    「毛沢東と、人民の味方たる共産党の首長が断罪した『民族分裂主義者』たちを殺害することは、
    躊躇ない善なる『革命行為』に発展していった」と。

    内モンゴル自治区のモンゴル人が「民族分裂主義者」と断罪されたとき、
    中国人(漢族)は「善」として虐殺をなしたというのである。尚、

    モンゴル問題に限らずウイグル問題もチベットのそれも、
    ユーラシア大陸で中国に苦しんできた民族の側から中国を見る目を教えてくれるのである。

    中国はこのようなことを認めようとしない。文化大革命全体の実態も闇に沈んでいるのである。
    そのような国が南京事件「30万人」を言い募っているということは、
    南京事件のこの数字が過大なものであると国際社会にアピールする際、紳士的に付記しておいてよいと思う。

    楊氏の提言に学べるところは大きい。

    日本はモンゴルをはじめユーラシア外交にもっと目を向けるべきだという提言もそうだし、

    あるいは集団的自衛権をめぐる日本国内の議論について述べた次のようなくだり。

    「自衛権のない国家は去勢された男のような存在です」。

    能天気に日中友好を説く日本人へ、

    「ぜひ、『日中友好論者』たちにも中国共産党支配下の内モンゴル自治区や

    『反テロの前線』たる新疆ウイグル自治区、

    焼身自殺による抗議活動が続いているチベットにも足を運んでほしいものです」と。


    チベット、ウイグル等への侵略と弾圧

    チベットに対する中国の人権弾圧は、2008年(平成二十)夏に行われた北京オリンピックを前にして、

    国際的な非難を呼びました。

    最終目標は天皇の処刑へ)

    中国はチベットを自国の一部だと言っていますが、そもそもチベットは、
    歴史的には漢民族とは異なるチベット族の国です。
    国土は現在の中華人民共和国チベット自治区の他、青海省・甘粛省・四川省・雲南省にまたがる、
    チベット三州(ウ・ツァン、カム、アムド)から成り、その広さは二三〇万平方キロ、
    中国全土の四分の一近くにもなります。人口は約六百万人。

    古く(七~九世紀)はこの地には吐蕃という名の独立王国があり、
    清の時代には法王ダライ・ラマが清と一種の同盟関係を結んでいましたが、
    清が滅亡すると独立を宣言しました。しかし、

    一九四九年(昭和二十四)に成立した中国(中華人民共和国)は翌一九五〇年、
    チベットを米帝国主義から「解放」すると称して大軍を送り込み、制圧してしまったのです。

    この時、中国がチベットとの問で締結した「十七条協定」には、民族自決権を保証し、
    ダライ・ラマ体制を維持し、宗教や伝統を尊重することが謳われていましたが、中国側はその全てを反故にし、
    七千あったチベットの仏教寺院はその九割が跡形もなく破壊されてしまいました。

    また、僧侶や地主は「支配階級」として糾弾され、
    「人民裁判」による見せしめの「吊し上げ」によって次々と死んでいきました。

     「子供が親を、親が子を批判することを強制し、夫婦が互いに監祝し合うことを強制する」共産主義独特の恐怖政治の中で、無数のチベット人が命を落しました(ペマ・ギャルポ『中国が隠し続けるチベットの真実』)。

     一九五九年(昭和三十四)三月十日、遂にチベットの人びとはこうした弾圧政治に抗議して立ち上がりました(ラサ蜂起)。しかし、人民解放軍の弾圧により、多くのチベット人が投獄・殺害され、ダライ・ラマ十四世は八万人の民衆と共にインドに亡命し、チベット亡命政府を樹立、十七条協定の破棄を宣言します。

     その後も中国のチベット侵略は止まず、ラサ蜂起から一年半ほどの問に、八万七千人ものチベット人が虐殺され、一九五〇年以降、一二〇万人以上のチベット人が虐殺されたと言われています。また、漢民族移民の優遇策で大量の漢民族が移住したため、今では漢民族の人口の方が多くなり、チベット語やチベット文化を学校で教えることも禁じられています。



     他方、ウイグルは中央アジアのタリム盆地に居住する民族で、人口一千万人弱です。一九五五年(昭和三十)に中国の新彊ウイグル自治区に編入されましたが、チベット族がチベット仏教を信奉しているように、ウイグル族もイスラム教という強固な宗教的・精神的支柱を持っていますので、当初から激しい独立運動が起きています(東トルキスタン独立運動)。一九七二年までに三十六万人のウイグル人が殺害されたと言われていますが、最近では一九九七年(平成九)の武装蜂起(グルジャ事件)で二百人が殺害され、数千人の若者が労働改造所(強制収容所)送りになったと言われます。

     中国には漢民族以外に五十五の「少数民族」が居住していますが、彼らは一様に漢民族の侵略と弾圧により、民族としての誇りやアイデンティティを失い、消滅寸前の危機にあるのです。

    チベット亡命新首相が中国批判「弾圧あれば抵抗ある」2011/05/13東京

     ダライ・ラマ14世(75)から政治的権限を委譲されるチベット亡命政府新首相のロブサン・センゲ氏(43)が、「チベットは中国の占領下にある。(多数の死者が出た2008年の)チベット暴動と同じようなことが起きる可能性がある」と述べ、中国政府を強く批判した。

     センゲ氏は、中国チベット自治区ではダライ・ラマの写真を持っているだけで刑務所に入れられると指摘し「暴動再発を望んでいるわけでも支持するわけでもないが、弾圧のあるところに抵抗運動はある」と言明。

     さらに自身が世界中の亡命チベット人による選挙で選ばれたことから「亡命政府には民主主義がある。避難民でも自分たちの指導者を選ぶ選挙に参加できる」と強調。チベット自治区では住民自身が指導者を選ぶことができず、チベット人はトップに就けないと体制を批判した。

     一方で、チベット人に自制を求めていることも強調し、中断している中国側との対話再開に熱意を示した。


    ***************************************************
    http://yutakarlson.blogspot.jp/2015/01/10.html焼身自殺するチベット自治区の青年
    中国では建国以来最近で年平均10万件以上になっているのではと推計されている
    この10万件という数、あまりに膨大で、想像もつきませんが、日本の人口は中国の人口の1/10くらいですから、毎年日本で1万件の暴動が発生しているのに等しい状況ということです。

    すさまじいです。10,000÷12=833ですから、毎月833件もの暴動が起こっているのに等しいことになります。日々は、10,000÷365=27ですから、毎日27件もの暴動が起こっているのと等しいことになります。これは、すごいです。

    華僑=「中国大陸・台湾・香港・マカオ以外の国家・地域に移住しながらも、中国の国籍を持つ漢民族」を指す呼称である。外国籍取得者の華人に対しても使用されることがある。

    とても日本とは比較にならないくらい中国の内情は酷いものです。

    こういうところから、このブログで8年前くらいは、「中国分裂の筋書き」というシリーズの記事を10回程度掲載しました。この頃には、私は今くらいには中国は分裂しているか、分裂の方向性がはっきりしていることだろとうと予測していました。

    しかし、皆さんもご存知のように、今のところは、そうはなっていません。なかなか、そうならないので、一体どうしたことかと思っていたのですが、私が見逃していたことがありました。

    その見逃しとは、私自身が日本人ですから、中国のことなど詳しくないといえば、詳しくないということなのですが、要するに、中国は全くまともな国ではないということです。国と名前がつけば、大方の日本人は、まともな国を思い浮かべてしまうのですが、はっきりいえば、中国はまったくまともな国ではありません。

    本当に国と言って良いのか、ためらわれるほど、まともではありません。

    http://yutakarlson.blogspot.jp/2015/01/10.html内モンゴル自治区での暴動

    そのまともでないことは、いくつもありますが、そのうちの一つは昨日も掲載した、中国は建国以来他国を侵略する侵略国家だったということです。上の地図でもわかるように、ウイグルも内蒙古も、チベットももともとは、外国です。ここを侵略したのです。昔、満州国といわれていた、東北部だって、もともと民族が異なり、中国領とはいえませんでした。ここも、結局終戦のどさくさに紛れて、奪いとったというのが、真相です

    今日、いわゆる先進国による、侵略によって得た植民地などは、ほとんど全部が独立しましたが、中国は、未だに植民地を有しているということです。自治区などともっともらしい名前をつけていますが、これは植民地です。

    周辺に侵略して、植民地にして、それをそのまま統治しているわけです。ここからして、中国はまともではありません。


    人民解放軍の使命は、人民を守ることではない! 海外に侵略し、人民を弾圧することである
    そうして、もう一つまともでないところに、他国と全く異なる異様さとして、治安組織の異常なまでの突出ぶりです。まずは、人民解放軍は軍隊ではありません。他国の軍隊といえば、実際はどうかわからないところもありますが、建前として、国軍であり、国民や国家を守ることを任務としています。

    しかし、人民解放軍は、あくまで、中国全土に7つある地方共産党の配下にある私兵に過ぎません。人民を守る軍隊ではなく、地方共産党を守る集団です。それに、人民解放軍は、軍事集団というだけではなく、様々な事業を展開しています。

    日本共産党=人民解放軍(人民を守る軍隊ではなく、地方共産党を守る集団、
    中国全土に7つある地方共産党の配下にある私兵)

    しかし、人民解放軍は、あくまで、中国全土に7つある地方共産党の配下にある私兵に過ぎません。人民を守る軍隊ではなく、地方共産党を守る集団です。それに、人民解放軍は、軍事集団というだけではなく、様々な事業を展開しています。

    これも、日本人は、ほとんど想像もつかいないでしょうが、人民解放軍は、日本でいえば、商社のような存在であり、その商社が武装していると考えたほうが、その実体を良く表しています。

    共産党の私兵でもある、人民解放軍は、人民の味方ではありません。共産党を守り、他国に侵略し自国人民を弾圧する軍事集団でもあります。

    その他、中国では日本でいう警察のことを公安警察といいます。日本で公安警察というと、特殊な警察ということですが、中国はそもそも日本でいう普通の警察が公安警察です。この意味するところは、警察も人民を守るのではなく、人民を弾圧するためにあるということです。

    そうして、きわめつけは、城管の存在です。城菅(Cheng Guan)の正式名称は“城市管理行政执法局”と言います。 城管は中国のすべての都市に点在し、中国の政府機関とも地方機関とも称されています。 


    これが蓮舫

    規約では、環境、 衛生、作業の安全性、公害防止、健康、緑化、産業、商業、環境保護、市の事務及び水中での執行と書かれています。 このように公安(警官)でもなく微妙な立場の人々ですが、昨今の人権侵害も甚だしい存在です。 城管は試験をパスした公務員以外に企業から来た人や、学生などもいますが、屈強な男性ぞろいです。 城管の多くは給料の安い臨時職員で、急速な都市化で人員不足となっていることから、チンピラまがいの人も雇用するなどしているといいます。

    このチンピラまがいの連中が、普段から人民の動向をうかがい、何か問題があれば、逮捕するなどの強行手段も実行します。

    こんな異質な中国です、他国に侵略して植民地にするわ、人民の不満が鬱積してもおかまいなしで、徹底的に弾圧するわで、だからこそ毎年平均10万件ほどの暴動が起こっても、びくともせず、今までの体制を維持できたのです。この点を私は、すっかり見逃していました。








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    『カエルの楽園』、沖縄、今そこにある危機、チベットが中国に本格的に侵略される以前と同様の現象が起きている。百田 尚樹氏、ペマ・ギャルポ氏、鳴霞氏は日本の危機を憂い言語にした

    01 2013

    【日本への中国の侵略は既に進行している】

    中国の沖縄に対するアプローチは、
    東チベットで行ったことと非常に似ています。

    中国を喜ばせ侵略を誘引する反日奴等
    憲法学者 小林節は
    中国に仕組まれていた


    【討論】大晦日スペシャル-日本はどこにいる?どこに行く?[桜H28/12/31] youtubeで観る

    ◇日中記者交換協定
    1972年工作要綱に第二期
    日本国内には相当の工作機関員が潜伏し、

    マスコミ工作◇新聞・雑誌工作では、かなりの環境作りがなされた。

    環境作りの一環として
    1964年に日中記者交換協定結ばれた。
    この日中記者交換協定によって

    1. 朝日新聞
    2. 毎日新聞
    3. 読売新聞
    4. 産経新聞
    5. 日本経済新聞
    6. 西日本新聞
    7. 共同通信
    8. NHK
    9. TBS
    九社の報道機関が、
    国交がない段階で北京に常駐できることになります。

    しかし、68年の改定で中国側から「政治三原則」が押しつけられる

    各社は否応もなくそれを飲まされることになりました。


    1. 中国を敵視してはならない。
    2. 「二つの中国」(台湾)を作る陰謀に加担しない
    3. 中日両国関係が正常化の方向に発展するのを妨げない


    これ以降、中国はジワジワと日本のマスコミに圧力をかけていくのです

    例えば当時、日本のマスコミでは台湾の国民党政府(中華民国)と区別するために、

    北京政府を中共と呼んでいました。

    北京政府は、例えば「中共第○大会」などと自分たちでも中共と呼ぶのに、

    日本側が中共と呼称することに絶えず抗議をしていたのです

    そのため国交が樹立して真っ先に要求してきたのが、

    “中共”という呼称を中国に変えさせることでした

    本当の中国は自分たちであり、台湾ではないということを認めさせたのです
    この協定が結ばれて以降、中国に不利益となる報道はできなくなります

    例えば、林彪がモンゴルで墜落死した事件が大手新聞社で報道されたのは、
    事件後半年も経ってからでした。
    おそらく政権内部で権力闘争が続いていることが公になって、
    中国が推進する日中国交樹立に支障を来すことを危倶した新聞社が自主規制したのです

    その後も朝日新聞などを中心として、“中国ブーム”のようなものを起こす動きが顕著になっていきます

    国交回復を機に贈られたパンダブームもそうですが、

    中国は巨大市場であり、中国は膨大なエネルギー資源があり、

    日本は近しくならなければ損である
    といった具合に、

    マスコミによって親中国の世論醸成がなされていった。

    新聞・雑誌工作、放送界を麻薬(資金)漬けにして、
    言うことを聞かなければ麻薬(資金)をあげないよという狙いも隠されているのです。
    当時、

    朝日新聞に中国には大油田があり

    関係がよくなれば石油は心配いらなくなる」というウソ記事が書かれる。

    そして1972年の日中国交回復から、1978年の

    1. 福田内閣による日中平和友好条約締結を経て、翌年からは
    2. 大平内閣によって莫大なODA供与が開始されることになるのです。

    外務省
    対中ODAは、1979年に開始され、2013年度までに

    有償資金協力(円借款)を約3兆3,164億円、

    無償資金協力を1,572億円、

    技術協力を1,817億円、

    総額約3兆円以上のODAを実施してきました。

    返済義務を課さないで資金を供与する援助。

    当該ホームページにて掲載されているものは、一般無償資金協力に該当するもの。
    対中ODA近年の実績(PDF)別ウィンドウで開く

    この記者協定を楯にした、報道規制は現在でも明らかに残っています

    2010年、北アフリカでわき起こつた「ジャスミン革命」の余波が、中国にも波及しました。

    中国各地で民主化を求める集会が開かれましたが、

    その際、中国政府は集会をインターネットで呼びかける市民を逮捕するなどの弾圧を加えました。

    そして、こうした動きを取材しょうとする日本や欧米のメディアに対しては、

    強制国外退去をちらつかせて圧力をかけるなど、


    いまだに自由がない国であるということを世界中に知らしめました。

    そうした事実も、
    「報道の自由」を口にする日本のメディアが積極的に報道したとは言えません。
    日本の大手マスコミが記者協定に縛られている結果だと思われます。

    また、
    東日本大震災において台湾から過去最多の義援金が送られたにもかかわらず、
    中国ばかりが目立つような報道がなされたのも、記者協定という見えない圧力があったとみて間違いありません。

    TBSと読売テレビでコメンテーターには
    チベット国旗を出す場合、わざわざ聞く必要もないのに、

    スタッフが
    中国大使館に電話をしてお伺いを立てる。

    すると当然ながら、

    1. 親中派団体の人間などには番組あてに、
    2. 番組のスポンサーには番組編成局あてにクレーム電話をかけさせる。
    3. そしてその件と関係ないことでも、事あるごとに
      「コメンテーター(ペマ・ギャルポ)を番組から降ろせ」といったクレームが来る。


    つまり、メディアは確実に操作監視され、中国に利用されているている
    それこそが2000人の工作員(社員)の成果と言えるでしょう。
     
    ちなみに、人民日報の東京支局は朝日新聞本社内にあります

    また、CCTVの事務局NHKの中にがある

    中国の報道機関が、政府の諜報機関であることは公然の秘密です

    それらを日本を代表するメディアが内部に迎え入れていることが私には信じられません。

    ◇新聞・雑誌工作

    1. 紙面の論調は、台湾との関係断絶、

    2. 北朝鮮などと国交樹立を肯定する方向に誘導
      紙面で繰り返し取り上げさせることで、

    3. 世論の圧力を作り出して政府に実行させる。(シールズ 共産党のデモ母親たち)そして

    4. 政府・与党のやることなすことを批判させ、野党寄りの記事を書かせます。さらに

    5. 野党共闘を全面的に後押しして、民主連合政府を作りやすい環境を作っていくのです



    また

    「人間の尊重、自由、民主、平和、独立の強調」と
    日本を形作り、
    戦後の驚異的な復興を成し遂げた原動力
    共同体への帰属意識、公の精神、家族の絆、健全な競争心など、
    個の尊重。
    それらを根こそぎ破壊して、日本を弱体化させようというものです


    ************************************

    沖縄を麻薬漬けにして、
    言うことを聞かなければ麻薬をあげないよという狙いも隠されているのです。




    ◆観光客を装った民兵たちによる、日本国土の買い占め分断工作

    チベットの場合は、独立自尊の気風が強い東チベットの豪族、藩王の反中央感情
    (現日本国では、中国侵略先導者
    確信犯・・蓮舫、翁長、辻元の仲間、民進党~、
    吉永小百合、瀬戸内寂聴、加藤登紀子、坂本龍一、鳥越俊太郎~、御厨、小林節~等反日、在日

    を巧みに操りました。



    1. 中国資本によって日本の土地が買われている

    2. 中間に日本の会社や個人を入れるなどの偽装工作をしているので、

    3. 水資源を狙って北海道の土地を買い進めています。沖縄の土地も相当買収されている。

    4. 日本政府が沖縄を無視してきたとアピールしている。

    5. 県民に中央への反感を抱かせ、中国との交流によっていかに沖縄が潤うかを味わわせる

    6. そして県民によって、 良好な関係の中国を牽制する米軍基地は県に不利益を与えると主張させて撤退させる

    7. 長期的には沖縄に自治を要求させ、日本からの分離、独立

    8. 最終的には中国への併合までに。

    9. 県議会議長や商工会議所会頭、 政財界の人たちは完全に洗脳されている。

    10. 国の総領事館を作って200万人の中国人観光客を呼び込むという話が既定路線になっている。

    11. 特に政治家たちは、それが地元の振興になると洗脳されている。


    12. 中国政府の企みは、最初のうちは計画通りに事を進める、やがて

      中国政府の指導があれば、年間200万人の観光客を送ることなど簡単である。しかし、

      毎年200万人の観光客が来て、その間にいろいろな拠点を作って、

      気が付けば

      日本から沖縄を分離するような環境を整えていく

      それを中国は、沖縄市民の意志によるものであり、

      我々(中国政府、即ち観光客を予想った民兵)は請われて動いていると自分たちを正当化する。


    13. 大量の観光客(観光客を予想った民兵)は「アメとムチ」の役割を果たすことも忘れてはなりません。

    14. 中国人観光客(観光客を予想った民兵)によって一時的に潤っても、それに依存する経済になつてしまうと取り返しがつきません。

    15. 昨年、尖閣諸島問題が起きるとパタツと中国人観光客(観光客を予想った民兵)が来なくなりましたが、
      それは観光客を予想った民兵であることの証明です。

    16. 送り出すだけでなく、政府が観光客(観光客を予想った民兵)を止めることも自在なのです。
      それは観光客を予想った民兵であることの証明です。

    17. こうなると、仮に沖縄で中国を警戒する気運が出てきたとしても、簡単に日本政府を封じ込めることができます



    ◆観光客、留学生を装った民兵による暴動


    2008年3月17日の記事2008年4月29日 火曜日
    大勢の中国人留学生(民兵)が動員されている。
    4000人にのぼる中国人留学生(民兵)が集結。

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    長野聖火リレー
    支那人留学生(民兵)らに暴行受けた日本人12人が被害申告・7件の被害届受理・衆院外務委員会で
    松原仁の質問に警察庁・留学生(民兵)一人当たり年間262万円の血税・御茶ノ水駅の支那人殺人未遂犯が保釈

    ◆長野五輪聖火妨害動員 中国当局が旅費負担 4月29日 
    中国当局主導で
    各地の中国大使館側が旅費を負担するなどして、
    現地の中国人留学生(民兵)らを大量動員していたことが関係者の話でわかった。
    「人間の壁」による妨害対策を指示するなど、
    対処マニュアルも作成。赤い中国国旗を振り暴動行動

    約5千人の中国人留学生(民兵)らが日本各地から集まった
    東京から参加した複数の留学生(民兵)によると、前日から夜行バスで向かい、
    1人2千円の交通費を負担したが、残りの費用は、すべて大使館側が負担してくれたという

    ◆2016年12月中国人観光客を装った民兵か?)千歳空港で暴動【日本国内での中国人の暴動】とうとう現実のものとなる。


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    公安庁が認識
    公安調査庁が沖縄の反基地世論を「中国の分断工作」とする
    沖縄の次は北海道か、東京五輪か。


    配られたマニュアルでは、
    (1)聖火が引き継がれる地点にそれぞれ20人ずつ集まって「人間の壁」をつくり進入者を妨げる。
    (2)自分たち以外の大人数の団体を見つけたら責任者に報告する
    (3)不審な物を発見したらすぐに新聞紙や服で包んで排除する、などと書かれている。

    福田首相は中国人は一斉逮捕するなの指示で逮捕者なし

    ナチは敵視する政党の集会や街頭デモに殴り込みをかけ潰したが、
    世界各地に現れた中国人留学生の集団はまさにそれだった。
    ◆”聖火リレー”と文明の衝突 4月29日 

    26日に長野市で行われた北京五輪”聖火”リレーイベントは、

    平和の祭典というイメージのひとかけらもない、異様な雰囲気であった。

    長野にかぎらず世界各国に五星紅旗を持って大挙して押し寄せる中国人留学生の集団は、まさに不気味の一言で、
    長野の次の開催地ソウルでは暴徒化、北京五輪に反対する韓国人に対し殴る蹴るの暴行を加え、
    石や鉄パイブを投げるなど、やりたい放題だったようだ。

    名目上は留学生という身分でありながらも、
    この中国の若者たちは中国共産党独裁政権のコントロールを受けて、
    中国が敵視する人々を暴力でもって排除することを目的に結成されている。

    われわれ人類は、以前にも同じような集団を見たことがある。

    そう、ナチス党の突撃隊である。

    それとも中国人留学生グループは若者の集まりだからヒトラーユーゲントがふさわしいか。

    突撃隊は、ナチス党が敵視する政党の集会や街頭デモに殴り込みをかけ、
    暴力によって対抗勢力をつぶすのが当初の役目であったが、
    世界各地に現れた中国人留学生の集団はまさにそれだった

    そしてもっと恐ろしいことは、日本も含めて世界各国で北京五輪に反対の立場の人が行った違法行為は厳しく取り締まられたのに対し、”中国共産党突撃隊”あるいは中国版ヒトラーユーゲント(洗脳とプロパガンダ)
    (ナチスドイツの市民生活の違法行為の多くは治安当局によって見逃されたことである。)

    世界の誰も中国版ヒトラーユーゲントに対し逆らえなくなってしまったのだろうか?

    朝日新聞など左翼マスコミは今こそ「軍靴の音が聞こえる」と書くべきではないのか

    世界各国に出現した中国版ヒトラーユーゲントを見て思ったことは、
    自由や基本的人権が保証された21世紀の民主国家で生活している中国人留学生たちでさえも、
    中国大陸に引きこもっている大多数の中国国民同様、
    依然として19世紀の帝国主義時代を生きている人間であるという事実だ。


    中国人留学生たちの実態

    19世紀の帝国主義の時代は、
    「わが民族は他の民族より優秀である。それゆえわが民族が他民族を支配することは当然であり、歴史的使命である」とする、
    行き過ぎた民族主義(ナショナリズム)が美化・正当化された時代であったし、
    戦争による領土拡張・武力による他民族の支配が英雄的行為とされた時代だ。

    そうした国では往々にして多様な価値観や違う意見の共存は許されず、
    自民族優越主義や”愛国主義”に反対しようものなら、暴力によってたちまち口を封じられる時代であった。

    それは第二次世界大戦の終了とともに終わりを告げたとされたが、実はそうではなかったのだ。

    日本や欧米など民主的な先進国にいる人たちは、
    情報が完全にコントロールされた中国国内と違って、
    マスコミやウェブからさまざまな情報・さまざまな意見を比較検討し、
    いくらでも真実に近づくことができたはずである。

    しかし、中国共産党独裁政権が100人以上のチベット人を虐殺し、
    数百人を強制連行したという人権侵害の情報がさんざん流されているにもかかわらず、
    中国人留学生たちの耳にはまったく届かない。

    自分たちの偉大な祖国・中国が、武力によって
    他民族を従え広大な領土を支配しているという19世紀的英雄行為への大熱狂、
    「世界は中国の広大な支配地域と漢民族の優秀さに嫉妬しているだけだ!」
    「ワン・チャイナ!ワン・チャイナ!」の大合唱にかき消されてしまう。

    世界各国で猛威をふるう中国版ヒトラーユーゲント。

    自由・民主主義・基本的人権の尊重・異なる意見の共存を許す寛大な社会である
    日本や欧米など21世紀型文明の国と、

    独裁主義・自民族優越主義への熱狂・武力による
    他民族支配と領土拡張
    これらの価値観に反対する者は暴力によって容赦なく叩き潰す、
    19世紀型文明の国・中国との衝突である。

    まさに「食人文化」虐待、粛清の遺伝子を持つ民族である。
    もうすでに福沢諭吉「脱亜論」の教えにある、
    9条を「戦争法」と(正しくは『非防衛法』)ヒステリックに叫び
    中国の侵略からの防衛を、妨害する
    中国侵略先導者
    確信犯・・蓮舫(二重国籍、スパイ疑惑)、翁長、辻元の仲間福島瑞穂(慰安婦捏造犯、拉致疑惑)、民進党、保坂世田谷区長~、
    吉永小百合(反日映画女優)、瀬戸内寂聴(性欲絶倫坊主)、加藤登紀子(獄中結婚)、坂本龍一、鳥越俊太郎
    山本太郎、アグネス・チャン、桑田佳祐、美輪明宏~、
    御厨、小林節~等反日

    とは決して関わらないことである
    *********************************************
     【分断工作】 

    「独立」というのも日本国民を煽って反米感情を強め、

    日米を離間させようという目論みですが、それに乗ってはいけません。

    2010年に、沖縄の基地移設問題で日米間がモメたのと時を同じくして、

    尖閣諸島事件が起きたのを見てもわかるように、中国は常に隙を狙っているのです.。

    また、『巨人の星』や『あしたのジョー』のような、当時全盛だった「スポ根もの」のアニメや映画、

    あるいは歴史ドラマなどは好ましくないとしています。

    郷土愛や民族的な一体感を喚起させるような番組も、できるだけ少なくなるように誘導しています。

    このことは逆に言うと、

    日本人が潜在的に秘めている精神的強さを、

    中国側が恐れているからともいえるでしょう。


    ◇自民党分裂と公明連立分断工作
    政治の混迷
    状況は、
    1976年に河野洋平氏が主導した新自由クラブの誕生に始まり、ついで
    1993年の竹下派分裂による小沢一郎氏の自民党離反
    この二つに起因するのは間違いありません

    というのも、どちらの場合も直前の総選挙で自民党は勝っているのです。
    少なくとも国民の負託は自民党だったにもかかわらず、
    造反者が現れて自民党は政権を奪われ、野党に追い込まれてしまった。

    工作要綱には
    日本の内閣総理は、衆参両院の首班指名選挙を行って選出される。

    両院で議員総数の過半を掌握すれば、
    人民の意志とは関係なく、任意の者を総理となし得るのである」と書かれていますが


    まさにその通りのことが起きたのです。

    このような

    政治家たちが、具体的に中国政府と打ち合わせしてやっているかどうかは別です。
    おそらくそこまで

    魂を売っているとは思いませんが、

    マスコミ業界の人間と同様、

    中国は何らかの形で政治家を遠隔操作して、

    彼らが自然に中国政府の思う方向に行動するように仕向けている

    ある意味で、巧妙に洗脳されているということです。あるいは、

    工作要綱に書かれているように、議員が持つ弱点を突かれたのかもしれません。

    さまざまな手法を複雑に組み合わせた地道な工作がボディブローのように効いて

    結果的に日本国民に大変な損害を与えているのです

    その後の
    自民党はやむを得ず社会党と、

    あるいは公明党と手を組むという道
    を選択します。
    しかし、

    手を組むことによって他党に対する依存度が増して、

    結果として一党で政権を担当する力を失ってしまいました。

    今では公明党との連立ありきで選挙を戦う有り様になっています。 

    政治家を縛る「友好」という呪文です。

    この言葉を日本が率先して唱えることが、

    日本が先の戦争の罪悪感を払拭する方法であるかのような印象を与えてしまった。

    その象徴が
    2009年、小沢一郎氏が140数人の国会議員を引き連れて、
    胡錦躊に〝謁見〟した一件でしょう。
    残念なことに有権者も、国際間題についてあまりにも無関心過ぎます

    国際問題が、
    実は自分たちの生活に直接つながっているのだということを、ほとんど理解していないのです。

    そこに大きな問題があります。



    小沢一郎に関してはもう一つ気になつたことがあります。

    天皇陛下に習近平副主席との謁見を強引に押し付けた際の、

    天皇陛下を軽視するかのような言動です。
    あるいは、民主党の

    岡田克也幹事長(当時)が天皇陛下のお言葉にまで注文をつけたことなども、

    天皇を廃止する動きの前兆だと思うのです。


    “開かれた皇室”を持ち上げるマスコミのキャンペーンも、

    本当に皇室を愛してやっているのか、

    それとも実は逆の意図を持ってやっているのか、一度検証してみる必要があると思います。

    もし皇室が世俗的権力を持っているならば、透明性や合理性を求めるのもいいでしょう。

    しかし、皇室は神話にまで繋がる、世界でも稀有な権威です。

    ひと頃メディアが取り上げた、男系であるべきとか、女系を認めるべきとかいう論議もする必要ありません。

    それは、伊勢神宮の社殿を20年に一回建て替えのが合理的かどうかと言うのと同じことなのです。

    中に入って相手を撹乱、分断する中国の常套手段です。

    ◇教育面での戦略

    「教育面での奉仕」

    全国の主要都市に
    中国語学習センターを開設することを謳っています。

    その教員は一名派遣する場合は女性限定、複数の場合は男女半々で、しかもすべて

    20歳代の若者を派遣するとしています。こうした具体的指示を見ると、メインターゲットである

    若者層に“下心”を抱かせる、ある種のハニートラップと言っていいかと思います。

    そして若者の間で中国語への関心が高まったところで、

    日本の大学に中国人教師の派遣を申し入れるのです。

    同様なことは日本以外の国に対しても進めていて、

    例えば現在、タイ、マレーシアなどにかなりの人数の若者を語学教師として送り込んでいます。

    この語学教師たちはほとんど例外なく、

    中国政府の代弁ができるように共産党によって教育を受けてから派遣されています

    この戦略は、世界中に設立された「孔子学院」という形で結実したと言えるでしょう。

    孔子学院とは中国政府の公的機関で、

    日本では2005年、立命館大学に最初の孔子学院ができています

    現在では13ヵ所の大学で開設され、世界を見ると各国合計332ヵ所にも及びます

    しかし、欧米を中心として孔子学院に対する反発も少なくありません。

    何故ならそれが国策事業であり、

    教育の現場を通じて各国の青少年を洗脳しょうとする意志があるのではとの疑念があるからです。

    まさしくその通りなのですが、日本でこうした声がほとんど聞かれないのは、

    やはり中国による人心工作の成果なのでしょうか。


    【日本への中国の侵略は既に進行している】

    日本の危機を憂い、中国による日本人民共和国への陰謀。

    『最終目標は天皇の処刑』ペマ・ギャルポ氏著(チベットから亡命、日本に帰化)

    『日本の掠奪』鳴霞著(日本に帰化したジャーナリスト)


    • 「日本が危ない。既に中国の半植民地に成り下がっている」
    • 「中国が日本の財界とマスコミ界を牛耳っている」
    • 「独立国家であるはずの日本で、中国を批判する言論はマスコミによってふるいにかけられ、
      中国に対しての批判的な記事は、掲載しないだけでなく、批判的な出版物に対しては書評の対象にすらならない。」
    • 「日中友好を盾に、日本の言論の自由、思想の自由を間接的にコントロールしている」


    こう書くと、大半の日本人は「何を大袈裟な!」と一笑に付すでしょう。しかし、
    中国に侵略されたチベットに生まれた私にとっては、
    事態が、その様に進行しているとしか思えないのです。というのも、


    ◇二〇五〇極東マップ

    中国外務省から流出したものとして、少し前にネット上で話題になつたものですが、
    この地図を見ると朝鮮半島は「朝鮮省」となり、日本列島は分断され「東海省」と「日本自治区」になつています。

    出生率低下で日本の人口はどんどん減少するので、日本列島の西半分に中国人を移住させて「東海省」とし、
    少数民族となつた日本人を東半分に強制移住させて「日本自治区」にするのだそうです。

    この地図自体偽物との声もありますが、あながち荒唐無稽とも言い切れません。というのも、
    「SAPIO」2009年12月23日・2010年1月4日合併号において、浜田和幸参院議員は次のように語っています。


    「私が初めてこの手の地図を目にしたのは、騒ぎになるよりも前、今から二年ほど前である。
    中国に駐在していた経産省の知り合いの官僚が帰国したので、
    久しぶりに会って話をしたのだが、『中国外務省の役人からこんなものを渡された』と地図を見せられた。
    地図に込められた禍々しい野心に、強い衝撃と怒りを感じたことを今でもよく覚えている」


    img_0_convert_20161230174837.jpg


    海洋国家を目指す中国の戦略はまずは台湾を、次に沖縄を版図に組み込む。
    そして、最後は日本列島ということになります。第二期工作要綱に書かれているように、
    もし日本人民民主共和国が誕生したら、このような事態になっても不思議ではありません。
    少なくとも中国政府の中に、いずれはこの地図を実現させたいという意識があるのは確かです。

    これはチベットが中国の侵略を受けた1950年当時、
    チベットでさかんに口にされた「仏教を護る」といいながら、
    騙し打ち、侵攻し、弾圧、虐殺、チベット文化、人々の生活の破壊をし、今もなお続いていること
    に酷似しています。何にもまさって中国に正当化されてしまう。



    ■『中国、太平洋の東西分割提案か』ワシントン・タイムズ記事全訳

    米軍の総司令官が訪中した際に、
    人民解放軍の当局者から太平洋を東西分割して管理する事を
    提案され米国が拒否したというニュースが産経新聞で報じられ話題になっている。

    この共同通信の記事は、キーティング太平洋軍司令官が訪中した際に中国から太平洋分割を提案された事、
    米軍が中国に覇権を譲る事はないという太平洋空軍のヘスター司令官の記者団への発言、

    そして米国政府の親中派では前向きな動きもあるが国防当局は「大きな過ち」として断ったとの内容が書かれているが、
    これは元々はワシントンタイムズのビル・ガーツ記者の2007年8月17日の記事が情報源となっている。

    この記事で太平洋分割案について触れられているのは最初のセクションで、
    共同通信の記事の内容は全てこれが情報源となっていると見られるが、

    その他には北朝鮮やイランに対抗する米国のミサイル迎撃戦略、
    最近中国が旧ソ連各国との軍事連繋を強め米国を除外している事への警戒、
    そして中国の将来の経済的台頭や米国との経済的結びつきや、台湾問題に関して書かれており、
    記事の主なトピックは米中関係である。⇒[元URL

    ◇沖縄、今そこにある危機
    沖縄を麻薬漬けにして、言うことを聞かなければ麻薬をあげないよという狙いも隠されているのです
    今、
    • 中国資本によって日本の土地が買われているといいます
    • 中間に日本の会社や個人を入れるなどの偽装工作をしているので、実体は明らかになっていませんが、
    • 例えば水資源を狙って北海道の土地を買い進めています。沖縄の土地も相当買収されているようです。

    • 日本政府が沖縄を無視してきたとアピールします。
    • そうして県民に中央への反感を抱かせる一方で、
    • 中国との交流によっていかに沖縄が潤うかを味わわせる。そして県民によって、
    • 良好な関係の中国を牽制する米軍基地は県に不利益を与えると主張させて撤退させる。
    • 長期的には沖縄に自治を要求させ、日本からの分離、独立。
    • そして最終的には中国への併合までにらんでいるはずです。
    • 中国の沖縄に対するアプローチは、東チベットで行ったことと非常に似ています。
    • チベットの場合は、独立自尊の気風が強い東チベットの豪族、藩王の反中央感情を巧みに操りました。

      私は沖縄に行った際、県議会議長や商工会議所会頭などいろいろな方とお会いしましたが、
    • 政財界の人たちは完全に洗脳されていると感じました。
    • 私が非常に危険だと感じたのは、
    • 中国の総領事館を作って200万人の中国人観光客を呼び込むという話が既定路線になっていることです。

    • 特に政治家たちは、それが地元の振興になるとさえ考えています。確かに最初のうちは計画通りに事が進むでしょう。なぜなら、中国政府の指導があれば、年間200万人の観光客を送ることなど簡単だからです。しかし、
    • 毎年200万人の観光客が来て、その間にいろいろな拠点を作って、
    • 気が付けば日本から沖縄を分離するような環境を整えているはずです。
    • そのとき中国は、それは沖縄市民の意志によるものであり、我々は請われて動いていると自分たちを正当化するでしょう。
    • 大量の観光客は「アメとムチ」の役割を果たすことも忘れてはなりません。
    • 中国人観光客によって一時的に潤っても、それに依存する経済になつてしまうと取り返しがつきません。
    • 昨年、尖閣諸島問題が起きるとパタツと中国人観光客が来なくなりましたが、
    • 送り出すだけでなく、政府が観光客を止めることも自在なのです。
    • こうなると、仮に沖縄で中国を警戒する気運が出てきたとしても、簡単に封じ込めることができます。
    • 要は沖縄を麻薬漬けにして、言うことを聞かなければ麻薬をあげないよという狙いも隠されているのです。


    ◇チベットの戦略的重要性

    今日の日本では「平和」ということが金科玉条となつています。
    これはチベットが中国の侵略を受けた1950年当時、
    チベットでさかんに口にされた「仏教を護る」ということに酷似しています。
    何にもまさって正当化されてしまう。

    同時に当時のチベット人、特に指導者層(日本では森 喜朗、石原慎太郎、蓮舫等)は残念ながら自分たちの権益のことしか考えておらず、
    国家という観点からものを考えていませんでした。

    今、日本も状況が似ていると思います。企業の利益、
    あるいは一地方の利益が優先されるべきという考えが主流になつてきています。

    一つ例を挙げれば、民主党が掲げる「地域主権」などという言葉には、
    幕末以来、日本の近代化に貢献してきた人たちが墓の下で嘆いているはずです。

    自分たちは一生懸命国内を統一して中央集権を確立し、強い日本を作ろうと頑張ってきたのに、
    今、それをどんどん分離し弱体化し、国家を解体していこうという勢力が発言力を増しているのです。

    また、武力による侵略だけでしたら、チベットもそれなりに抵抗できたと思います。
    アメリカがゲリラの抵抗でイラクやアフガニスタンから手を引かざるを得ないように、
    地の利を生かして戦えばそれなりに頑張れるものです。しかし、

    中国はチベット内部を撹乱し、分断させ、そして脅したり懐柔したりしながら、
    時間をかけて巧妙に侵略していったのです。
    日本においても、
    解放工作要綱に書かれているような心理的な侵略が進行しているということを
    しっかりと認識しなければなりません。
     
    是非、世界の人たちに知ってもらいたいのは、
    チベット問題はチベット人だけの問題ではないということです。
    特にアジアの人々に理解してもらいたいのは、チベットの戦略的、地政学的な重要性です。

    中国がアジア全体を支配しようとする覇権主義を進める上で、
    チベットはその第一歩だったと思います。
    チベットはミャンマー、インド、パキスタンと国境を接していますし、
    かつてはアフガニスタン、モンゴルとも国境を接していました。つまり、
    中国にとって、南アジアおよび南西アジアに進出するための、
    地政学上の非常に重要な拠点だったのです。

    もう一点は、中国の三一億人の人口のうち、一二億人近くがいわゆる漢人ですから、
    その人々を養っていくためには食橿を始め相当の資源が必要です。
    その意味ではチベットは地下資源が豊富であり、また、
    アジアの大河の源流が全てチベットにあることからもわかるように、
    水資源も豊富です。それら資源の獲得ということが目的にあったと思います。
    そして今、尖閣諸島周辺や日本各地の森林で起きていることは、
    その資源収奪の領域が拡大しつつあるということなのです。


    1972年に発掘された『中国共産党・日本解放第二期工作要綱』という文書に添う形で、
    日本社会が変容しているからです。


    チベットが中国に本格的に侵略される以前と同様の現象が、
    この日本でも起きているのです。
    また、


    中国が、日本国内の土地や資源を買い漁っていることは
    「資本主義社会における自然な商業行為」との意見もありますが、

    日本人が中国の土地を自由に購入出来ない以上(中国の土地はすべて国有で70年以下の貸借)、
    外交における相互主義からは、疑問が残ります。

    しかも、それが自衛隊基地周辺の土地に集中しているのは決して穏やかな話ではありません。

    更に、2011年3月の東日本・東北の災害で政府が混迷し、
    政治が空白を生んでいる時期を狙って、中国は
    火事場泥棒のように日本固有の領土内に入り挑発的な行為を続けているだけでなく、
    今や南シナ海の諸島に対して領有権を主張し武力的な実力を発揮して、
    周辺諸国と摩擦を起こしています。

    一時、財政難や接受国の国民感情を考量し、
    東アジア及び北太平洋におけるプレゼンスを、減少させていた米国も、
    各国の強い要望を受け再びこの地域における存在感を強めようとしています。

    接受国の世論もそれを歓迎するまでには至らないにしても、反対する人も少なくなりました。
    理由は言うまでもありません。中国の脅威を間近に感じているからです。

    祖国を追われた、私が第二の故郷である、日本が同じ目に適わないことを祈る気持ちで、
    この原稿を書いている間にも、中国による日本への文化的、精神的侵略はどんどん進んでいっています。
    個人の観光客への数次ビザの発給などは正にその一例です。

    一部の日本人は中国の正体に気付き始めているものの、
    中国の潜伏の仕方は深く計画的であるため、
    日本のあらゆる業界、分野に中国の息の掛かった者が存在し、
    忠犬のように中国の機嫌を取りながら頑張っています。

    今アジア諸国が中国の覇権主義的態度に強く反発し始め、
    米国もようやく対話から強硬姿勢に政策転向し、
    西側メディアは中国脅威論を堂々と主張し始めています。
    もう日本のメディアも見て見ない振りは出来なくなるでしょう。

    私が日本と日本人に感謝し愛しているのは、私に無償の愛を注ぎ、
    教え育ててくださった日本人の恩人達が大勢おられるからです。

    私達チベット人難民を日本に受け入れて大学教育を修めるまでのきっかけを作り、
    日本での生活の仕方を一から教え、育てて下さった倉前盛通先生。
    倉前先生のご友人で戦中チベットに密かに入りチベットと日本のために青春を費やした木村肥佐生先生。

    この二人の先生に共鳴し、実際私達難民の子供達を、受け入れ保護者となり大学の学費まで援助して下さった、
    毛呂病院医院長(後の埼玉医大の創設者兼理事長)丸木清美先生と私達の母親的存在の丸木希代先生。

    亜細亜大学で日本思想史をご教示頂いた、吉田寅次郎(松陰)の血縁の小田村寅二郎先生。
    大学卒業後私の保証人となって下さり、公私共また物心両面において大変お世話になった、
    初代内閣情報調査室長の村井順先生。

    入管局長として私達の入国に許可を出して下さった元日本国大便、
    元拓殖大学総長の高瀬侍郎先生。

    チベットと正義のため移動大学を創設し中国のチベットでの虐殺行為に抗議し続けた、
    文化人類学者の川喜田二郎先生。

    ほか岸信介先生、中川一郎・昭一先生、野呂田芳成先生、坂田道太先生、灘尾弘舌先生、長谷川唆先生など、
    多くの日本人にお世話になりました。

    この先生方の共通点は日本をこよなく愛し、正義を重んじ、真の人道主義者で平和主義者であったということです。
    私は先生方、日本の現状をご覧になっていたら、どう考え何をなさっただろうと考えます。
    そして、決して座して死を待つようなことはなさらなかっただろうと思うのです。

    私は今では友人も日本人の方が多くなりました。
    私はチベットに命を授けられましたが、難民となつて危機にある時、
    その命をインドに救ってもらいました。

    そしてその後、日本がその命を育んでくれたのです。おかげさまで今の私があると思っています。
    日本とインドに感謝しています。そしてこの本は上記の恩人の先生方に捧げたいと思います。

    この本を手にして下さった読者の皆様一人一人に私の思いが伝わらんことを心から願い、
    この美しい国、伝統と高度な文明が香る国、祖先が命懸けで守り続けてきた国を守って頂きたいと思います。
    それがこの本を執筆した理由であり、同時に一帰化日本人としての私の叫びと決意でもあるのです。                    (2011年12月 ペマ・ギャルボ)


    ◇「日本解放第二期工作要綱」

    冒頭に「日本が現在保有している国力の全てを、
    我が党(=中国共産党)の支配下に置き、
    我が党の世界解放戦に奉仕せしめることにある」という基本戦略が掲げられています。

    • 中国は第二次世界大戦終結後のどさくさに紛れて、

    • 火事場泥棒のごとくチベットを武力併合しましたが


    さすがにこの時代になると国際社会の目もありますから、そう乱暴なこともできません。

    そのため「基本戦略」は、
    まずは中国の意のままに動く

    • 塊偏国家を作るということが目標になっているのでしょう。

    ただし、チベットの例を見てもわかるように、その過程で
    • 日本固有の文化や価値観は徹底的に破壊されます。
    • 武力侵攻のように目には見えませんが、
    • 気がついたら行動を支配されているという
    • 文化的、精神的な侵略のほうが恐ろしいのです。



    工作員(民進党蓮舫(北京大学在学で中国政府の代弁ができるように
    共産党によって教育を受けてから派遣されています)、野田、)の具体的な任務は

    • 第一期目標(田中角栄内閣成立)が日中の国交を正常化させること、
    • 第二期目標が日本に民主連合政府を成立させること、
    • 第三期目標が天皇制の廃止(天皇は戦犯として処刑)(辻元が清美等が高らかに叫んでいること)
    • 日本人民民主共和国の樹立となっています。


    こうした「任務達成の手段」として、

    • 工作員は直接手を下すのではなく、

    • 日本人が自発的に行動するように仕向けることを強調していますが、

      この手法はチベットにおいて、

    • 僧侶たちに「キリスト教国主導の国連に入るのは反対」と言わせたのとまったく同じです。






    ◇周恩来・キッシンジャー会談

    日本解放第二期工作要綱の存在が報道される直前に、

    キッシンジャーと周恩来との問でニクソン大統領訪中のための第四次会談が行われていました。

    後にキッシンジャーの回顧録で明かされていますが、

    この会談では、当時、米中が、経済大国化しつつある日本にどう対応しょうとしているかが読み取れ、貴重です。

    更に、日本に対する、ある種の“密約”とも受け取れるような内容も話されています。

    70年代に入って、“日米繊維摩擦”が激しさを増していました。

    そして東アジアにおける日本の発言力が増し、経済的にも円経済圏ができつつあるなど、

    アメリカはその存在感が強まることを危倶していました。

    一方の中国も、その経済力が軍事力に結びつくことを懸念していました。
    そうした中で、アメリカ政府を動かしていたのが、

    キッシンジャー国務長官という“日本嫌い”の人物だったのです。
    キッシンジャーは、当初自分は日本人と価値観を共有できると思っていたが、
    実際は中国のほうがはるかにアメリカ文化に近かったと酷評しています。さらに、周恩来にこう語りかけます。


    「強い日本は強力な軍事機構を創造し、やろうと思えば膨張主義的な目的のために
    それを行使する経済的社会的土台を持っています。在日米軍はこの点ではまったく意味がないのです。
    それは日本の潜在能力と比べれば、なんの役にも立ちません。実際、在日米軍はパラドックスを作り出しています。
    なぜならば、我々と日本との防衛関係が日本に侵略的な政策を追求させなくしているからです。(中略)

    もし日本が自分の軍事機構を作れば彼らが我々から見捨てられたと感じればそうするでしょうが
    そしてもし核兵器を作ればたやすくできるでしょうがあなたが表明した心配が現実のものとなるでしょう。

    日本に関しては、貴国の利益と我々の利益とはとても似通っています。
    どちらも日本が大々的に再軍備した姿を見たくはありません。
    そこにある我々の基地は純粋に防衛的なもので、彼ら自身の再武装を先送りにすることができます」




    キッシンジャー発言は、戦前の『強国・日本』の再来を、目前にある危機として周恩来に印象づけ、
    日米同盟を警戒し、日本の中立化を望む周恩来に

    「自力で自らを防衛する日本は、周辺にとって客観的に危険な存在となるでしょう。より強力になるでしょうから。
    それゆえ私は、現在の日本の対米関係が、実際には日本を抑制しているのだと信じています」と畳み掛け、
    次のような言葉を述べ、中国を牽制するのです。


    「アメリカの政策について(中略)具体的に繰り返しましょう。
    第一に、我々は日本の核武装に反対します。(中略)
    第二に、我々は、日本の通常兵器が、日本の四島を防衛するのに十分な程度に限定するのが好ましいと考えています。

    我々は日本の軍事力が、台湾や朝鮮半島、またこれまでの協議で指摘したほかの地域であれ、
    どこに対しても膨張することに反対します」

     

    実際に日本はこの会談が行われる以前の1960年代に、核武装を検討していました。
    2010年にNHKで放送された
    『“核”を求めた日本 被爆国の知られざる真実』という番組で、
    村田良平元外務次官がインタビューの中で明言したのです。

    1964年に中国が初の核実験を行い、日本政府は安全保障上で大きなショックを覚えました。
    そのため当時の佐藤栄作政権は、プロジェクトチームを作って核兵器開発を検討したのです。ただしその結果は、「核兵器の保有は、我が国にとって技術的には極めて容易だが、政治的には困難である」という結論に達しました。

    ただ、一つ強調しておきたいのは、この会談で交わされている内容というのは、ごく自然なものだということです。
    ほかの国々では国益の追求が第一です。そして国益のためならどんどん立場を変え、
    場合によっては前言を翻すなど当たり前なのです。

    しかし、日本の外交はある意味硬直化していて、
    自分が約束を守れば相手も守るはずだと信じているところがあり、
    それが大きな間違いなのです。日本に同情すべき点があるとすれば、
    冷戦時代は独自外交というものがほとんどできなかったことでしょうか。

    この会談を見てもわかるように、例えば安全保障一つとっても、
    アメリカの了承なしには何もできなかった。
    佐藤首相が核開発を放棄した「政治的困難」の一つに、アメリカの意向があつたのは、いうまでもありません。

    しかしながら、核武装の是非は置いておくとして、れっきとした独立国である日本の安全保障が、
    他国の思惑だけで決まっていくというのは、正常な姿とはいえません。

    関岡英之氏は著書『中国を拒否できない日本』の中で、村田元次官が番組で語った次のような言葉を紹介しています。


    「日本という国の至高な利益が脅かされるような緊急事態になつたら、
    核兵器を持つというオプションも完全にはルールアウトしない。(中略)日本において核に関する真剣な、
    まじめな、しかも実体の脅威を頭に入れた議論を巻き起こすべきなんです」


     
    今日の中国の動きを見れば、とうに議論をするべき時にきていると言えるでしょう。


    ◇印中首脳会談

    2010年12月に中国の温家宝首相が訪印しましたが、その際、
    400人のビジネスマンを伴って14の大きなプロジェクト契約に合意しました。また、
    2015年までに貿易額を1000億米ドルまで引き上げることで合意するなど、
    経済的な結びつきを強化する方向で一致しました。
    しかしその一方で、政治的にはインドがこれまでにない強硬な姿勢を表したことで、
    両国関係に大きな変化が見られました。

     
    インドは50年代から一貫してチベットが中国の一部であることを前提に共同コミュニケを発表してきました。
    印中会談の度にその合意を踏襲してきたのですが、
    今回はインドはチベットが中国に含まれるという合意を成文化することを拒否したのです。

    同様に、台湾が中国の一部であるという文言も入らなかった。
    日本のメディアでは報じられませんでしたが、これは非常に注目に催する事実です。

    中国は今、国際社会、とりわけアジアにおいて積極的に自己主張、力の誇示を展開していますが、
    これはインドなりのささやかな抵抗だと感じました。
     
    インドが独自性を打ち出してきた背景には、
    昨年、国連安全保障理事会の常任理事国がインド詣でをしたように、
    経済的な発展に伴い国際社会における発言力も増してきたこともあります。

    オバマ大統領が2010年10月に訪印した際に、広範囲にわたる米印の協力関係、
    特に軍事・外交の面で協力することについて基本的に合意することができました。
    しかも、それが一時的なものではなく、

    今後少なくとも20年から30年にわたって協力していける確信を得ることができたのです。
    これらの裏付けがあってこそ、インドは今回、中国に対してこれまでにない強気なスタンスを打ち出せたのです。

    インドの元外務次官シャム・サランが、それまでインドと中国には国境などなかったと述べた。
    つまりチベットという国家が存在していたからだということです。
    彼は一つには世界の軍事的緊張の中心がアジアにシフトしつつあり、
    中印国境地帯についても軍事衝突の可能性が出てきたからだと考えられます。

    チベットの独立性を認めることで、有事の際にチベット人の支持を得ようというインドなりの打算があるわけです。

    1954年に周恩来とネルーは相互不可侵を約した「平和五原則」に合意しますが、
    チベットを完全に掌握した1959年になると、突如としてインド領内に攻め込みます。

    1962年には中国が大規模攻勢にでますが、
    これは世界中の視線がキューバ危機に向いているすきを突いた火事場泥棒でした。
    インドは中国の硬骨な手法を知り尽くしており、
    「友好」だけに惑わされないインド外交を日本は見習うべきです。

    参考書
    『最終目標は天皇の処刑』ペマ・ギャルポ氏著(チベットから亡命、日本に帰化)


    最後までお読みいただきましてありがとうございます。転載などご自由にお使いください。
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    <拡散希望> 沖縄のみなさんへ 昭和天皇が流された涙 昭和天皇の御心が届きますように。