【政治を読む】TVメディアは政治を歪め国民に信じ込ませてきた

蓮舫中国共産党と吉永小百合。日本を内側からとりこむ『基本的に中国人は全員スパイと考えた方が良い。人種偏見などではなく、中国の社会制度がそうなっているからです。中国が急に「有事」と定めたら、日本に送り込まれた中国人たちが暴動を起こし 略奪殺人強姦放火等々の日本破壊が始められるように、全員が工作員となるように定められている。「中国、日本共産党と在日韓国朝鮮人が引き起こしてきた謀略の数々」

残虐なDNA現代も繰り返される、中国大虐殺の歴史、中国の伝統――思想弾圧・大量殺戮・粛清 国会議員になった蓮舫は「華僑(毛沢東中国共産党)の一員として力を尽くす。」と述べた。

02 2016

蓮舫が二重国籍にこだわり続ける理由
現代も子孫に受け継がれる殺戮
毛沢東が行なった大量殺戮と粛清に次ぐ粛清

チベット・東トルキスタン( ウイグル)で今も行われている。


【謝蓮舫が二重国籍にこだわり続ける理由は
華人ではなく華僑漢民族でなければならない、
華僑は中国国籍保有者を言い、華人は現地国籍保有者を言う。
中国国籍保有者でも現地国に根ざした生活をしている人は華人と呼ばれます。
したがって、二重国籍にこだわり続ける理由は、
一つの中国国家を誇示する、中華人民共和国政府の定義を忠実に守る、
つまり工作員であると思われても仕方ないという事。】
その中華人民共和国政府DNAとは大量殺戮と粛清の歴史


中国とは一つの民族の歴史ではなく、異民族王朝であるが、

明確な征服行為を欠くため「征服王朝」とは呼ばれず「浸透王朝」という用語で定義される。

中国大陸の民族の虐殺と言う奇異なDNAを持つ人種の「征服欲」のために、行う

歴史の改ざんは侵略を正当化するためのプロパガンダである。

蓮舫と言う中国人とはそういう種類のものであるという事。決して信じてはいけない。危険なものである。


チベット人虐殺参照してください
ウイグル人虐殺参照してください
ウイグル ウルムチ核試験 Atom Bomb 
ウイグルでの中国の核実験
他人事ではない中国によるチベット人弾圧 沖縄が占領されたら次は本州
中国が尖閣・沖縄を侵略する日

殺戮と略奪の限りを尽くした後、都に火をかけ、咸陽を廃墟とした中国史、

同族どうしの殺し合いに飽き足らず21世紀の現代においては、それは他国にむかっての虐殺へと変貌し。

近年においては米軍を追い出した(これには斎藤まさし「テロ組織市民の党」も加わっている)後のフィリピン沖、

侵略を進める中国共産党、米軍が撤退すれば、沖縄もいずれそうなるであろう事は十分に推測できる。

本土にあっても工作活動をしている


日本国の政治にあたって外国人賛成権、

国土買占めなどを画策し日本弱体化をもくろんでいるのである。


◆民進党犯罪歴、不祥事リスト!! 次の選挙では絶対に落とそう!とにかく酷い。犯罪集団蓮舫民進党。
民進党金の流れ2億迂回献金日本に金日成主義革命の成就が目的、
菅直人、鳩山、鷲尾英一郎、黒岩宇洋などが多額の献金をした理由がそこにある。


献金額が多ければ多いほど「日本に金日成主義革命が成就」を理解していることになるという事だそうだ。
金日成は、「日本を金日成主義化する革命を起こす」ことを望んだ。 市民の党の“機関紙”に菅が寄稿している。

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◆本当の「南京大虐殺」、太平天国の乱◆

洪武帝朱元璋(しゅ げんしょう)(明の創始者であり、初代皇帝)がのし上がるきっかけとなった

白蓮教(びゃくれんきょう)(白蓮教の信徒が起した反乱である。)


1644年~1912清朝の時代にも大きな反乱を企てる。

1796年~1804白蓮教徒の乱

  • 清朝末期には、こうした宗教結社による反乱が相次ぐが、中でも

    死者五千万人とも人口の五分の一が死亡したとも言われ、

    「人類史上最大の内乱」とされるのが太平天国の乱である。

    太平天国の乱を起こしたのは、キリスト教系の「拝上帝会」と言う結社である

    (ちなみに、時期を前後してイスラム教結社の反乱である回乱も勃発しているが、

    当時から20世紀にかけて「洗回」と称する

    イスラム教徒皆殺し運動が展開され、それによる

    犠牲者は二千万人とも推定されている)。「天王」と称した

    洪秀全はキリストの弟であると宣言し、


1847に拝上帝会を創設した後、またたく間に勢力を拡大した。

1850に広西省で蜂起した洪秀全は、

1853

  • 南京を占領、「天京」と改めて都とし、太平天国の王朝を立てた。

    南京を陥落させた時には、太平天国軍は20万以上の兵力にふくれあがり、水陸両軍を編成するまでに至っていた。

    ものすごい勢いであるが、この進軍の過程で太平天国軍は、後世の

    毛沢東たちがやったような「一村一焼一殺」を日常的に行なっていた

    歴史書の記録によると、太平天国軍が湖南省になだれ込んでからは、湖南全域において

    10の村の中の7、8の村が襲撃された

    いたるところで財宝が掠めとられて、地主、郷紳(素封家)の家々は

    ことごとく皆殺しにされた

    屍骸が野に横たわり、血が流れて川となった。湖南開省以来、未曾有の大災難」であったという。

    しかし、この略奪・殺戮が、後に太平天国自身の悲惨な最後を招く原因を作った。

    太平天国軍による「湖南草刈り」の13年後の



1864

  • 曾国藩(そうこくはん)率いる湘軍(清の正規軍ではなく漢族の軍隊。北洋軍閥の源)は太平天国の首都である

    天京(南京)に攻め入ったが、この時の

    大虐殺は報復とは言え、言語に絶するすさまじいものであった。後に

    天京屠城」と称されるこの
    大虐殺の実態はどういうものだったのか。

    天京を落城させた後に湘軍がとった行動について、

    曾国藩自身は朝廷への報告書でこう記している。

    「吾が軍は賊都の金陵(南京の別称)に攻め入ってから、

    街全体をいくつかのブロックにわけて包囲した上、賊軍を丹念に捜し出して即時処刑を行ないました

    3日間にわたる掃蕩作戦の結果、

    賊軍10万人あまりを処刑しました」。

    3日間で10万人の処刑というだけでもすさまじいものだが、さらに常軌を逸しているのは、

    この殺戮が賊軍だけではなく、多くの民間人にも及んだことだ。


    曾国藩の死後、幕僚の一人であった

    趙烈文(ちょうれつぶん)は『能静居士日記』の中で、

    南京住民にたいする湘軍の虐殺を証言している

    「わが軍が金陵に入城して数日間、民間人の老弱した者、

    あるいは労役に使えない者たちは悉く斬殺され、街角のあちこちに屍骸が転がった。

    子供たちも斬殺の対象となり、多くの兵卒たちが子供殺しをまるで遊戯を楽しんでいるかのようにしまくった。

    婦女となると、40歳以下の者は兵卒たちの淫楽の道具となるが、

    40歳以上の者、あるいは顔があまりにも醜い者はほとんど、

    手当たり次第斬り捨てられてしまった」。こういう証言もある。


    湘軍と共に天京に攻め入ったある外国人の傭兵が、城内での目撃談を、

    英国の植民地だったインドで発行している新聞『インドタイムス』で語っている。

    「私は朝廷の部隊が太平天国軍の捕虜たちを殺戮する場面をこの目で見た。

    彼らは本当に軍の捕虜であるかどうかは定かではない。とにかく、


    普段は野菜売場である町の広場に、捕虜とされる数百人の人々が集められてきた。

    群れの中には男もいれば女もいる。老人もいれば子供もいるのだ。


    歩くにも無理な老婆、生まれたばかりの嬰児、懐妊している婦人の姿も見られる。

    朝廷の兵士たちはまず、若い女性たちを捕虜の群れの中から引きずり出した。


    彼女たちをその場で凌辱(りょうじょく)した後に、

    周りで見物している町の破落戸(ごろつき)たちの手に渡して輪姦させるのである。

    その間、兵卒たちはにやにや笑っているが、


    輪姦が一通り終わると、全裸にされた女たちの髪の毛を掴んで一太刀で斬り殺してしまうのだ。

    それからが男たちの殺される番である。彼らは全員、小さな刀で全身の肉を一片一片切り取られて殺される。

    何のためかはよく分からないが、心臓は、一つずつ胸の中から丁寧に抉り出されて、

    用意された容器に入れられるのである。次に、子供たちが母親の前で殺され、母親たちも同じ運命となる」。


    現在のところ、「天京屠城」で殺された住民たちの数は少なくとも10万人以上であるというのが

    歴史学上の定説となっている。これこそが、


    中国史上の本物の「南京大虐殺」なのである。


    中国では、人が人を食べるのが常態と化した。さすがに自分の子供を食べる親はいないから、

    親は、死んだり昏睡状態に陥った子供をよその家に持っていき、

    同じような状態のよその子と交換して自分の家に持ち帰り、その子を自宅で解体して食べたという。

    まさに、人類史上最大の人災と言えるだろう。大躍進政策の致命的な失敗により、

    さすがの毛沢東も責任を取らざるを得なくなり、




19594月27日、国家主席の地位を

  • 劉少奇に譲ることとなった。


    そこからの復讐・粛清が文化大革命なのである


    血で血を洗う抗争に次ぐ抗争という中国史の特徴を、

    より具体的に言えば、その特徴は、思想弾圧・大量殺戮・大粛清である。

    そして、現代中国・中華人民共和国ももちろんその性格を色濃く有している。

    毛沢東が行なった

    一村一焼一殺」と
    文化大革命は、

    数々の戦慄するようなおぞましい行為。


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毛沢東は、

1928から、湖南省・江西省・福建省・浙江省の各地に革命根拠地を拡大していくが、

  • その時の行動方針が「一村一焼一殺、外加全没収」であった。

    意味は「一つの村では、一人の土豪を殺し、一軒の家を焼き払い、加えて財産を全部没収する」である。


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1928から
1933までの5年間で、

  • 一村一焼一殺」で殺された地主の総数は、10万人に及んだという。


    中国共産党が政権を取ると

    「一村一焼一殺」は中国全土に徹底して行なわれることとなった

    全土で吊るし上げにあった地主は六百数十万人。うち二百万人程度が銃殺された。


    共産革命はどこの国においても大量殺戮と略奪を伴う惨たらしいものであるが

    毛沢東の行動を知っていくと中国史の伝統の焼き直しにも見える。

    次は粛清である。現代中国の粛清と言うと、先に述べた文化大革命が思い起こされるだろうが、

    実際には中国共産党が勢力を拡大して行く途上においても、

    数々のすさまじい粛清が行なわれている。まず、


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1930から翌31年にかけての「AB団粛清事件」。

  • これは中国共産党史上、初めての大量内部粛清であるが、この時は7万人以上を処刑している。

    政権を奪って権力を握ると、国家レベルで大粛清が行なわれることになった。


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1951年、「反革命分子鎮圧運動」である。

  • 毛沢東は「農村地帯で殺すべき反革命分子は人口の千分の一程度とすべきだが、

    都会での比率は人口の千分の一を超えなければならない」という殺人ノルマを課し、

    中国全土を反革命分子狩りの嵐が吹き荒れた。告発、即時逮捕、即時人民裁判、即時銃殺である



◆中国共産党の公式資料◆

◆中国共産党執政四十年◆1949~1989)』によれば、

  • 「反革命分子鎮圧運動」で銃殺された人数は71万人に上るという

    (さらに129万人が「準革命分子」として逮捕され、終身監禁された)。粛清・虐殺はまだ終わらない。


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1955には

  • 「粛清反革命分子運動」によって8万人を処刑している。

    思想弾圧・粛清の流れは「反右派闘争」などこの後も続き、

    その流れの中に既に述べた文化大革命があるのであるが、文革のひどさはよく知られるところである、

    【Youtube】で映像を見る

    文革にもつながった「大躍進政策」について述べておこう。

    先に、文革は政権中枢から失脚していた


    毛沢東劉少奇からの

    政権奪還を目論んで起こした大規模な権力闘争であり大粛清であったが、

    毛沢東の一時的失脚をもたらしたのが大躍進政策であった。


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195711月6日、

  • ソ連共産党第一書記・フルシチョフは、

    ソ連が工業生産(鉄鋼・石油・セメント)および農業生産において15年以内にアメリカを追い越せるだろうと宣言した。



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対抗心を燃やす毛沢東は、

  • 1958の第二次五ヵ年計画において中国共産党指導部は、

    当時世界第2位の経済大国であったイギリスを15年で追い越す(のちには「3年」に減少)という壮大な計画を立案した。


    その中心に据えられた鉄鋼などは、

    生産量を1年間で27倍にするというあまりにも現実離れしたものであった。


    食糧も通常2.5億トンの年間生産高を一気に5億トンに引き上げることが決められた。

    しかし、何の裏付けもないまま目標だけ勇ましく掲げても、実現できるはずもない。



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1959

  • 共産党政治局委員で国防相の彭徳懐(ほうとくかい)が大躍進政策の再考を求めたが、

    毛沢東が受け入れるはずもなく、

    逆に「彭徳懐反党集団」として断罪され、失脚させられる。

    (彭徳懐は、後の文革で凄まじい暴行を受け半身不随に。その後、
    監禁病室で下血と血便にまみれた状態のまま放置され死に至る)。


    これ以降、同政策に対して誰もものを言えなくなり、

    ノルマを達成できなかった現場指導者たちは水増しした成果を報告した。

    当時、全国の人民公社は穀物の生産高に応じて、政府に食糧の無料供出を割り当てられていた。

    「倍増」と報告された生産高によって、飢饉であるにもかかわらず、

    農民たちは倍の食糧を供出しなければならなくなったのである。

    その結果はすさまじい餓死者である。その数は、

    わずか3年間で2000万人とも5000万人とも言われている(中国本土では発禁となった。


    『墓碑――中国六十年代大飢荒紀事実』によれば、人口損失は7600万人に上るとのぼるとされている)。

    最後は、人が人を食べるのが常態と化した。さすがに自分の子供を食べる親はいないから、


    親は、死んだり昏睡状態に陥った子供をよその家に持っていき、

    同じような状態のよその子と交換して自分の家に持ち帰り、その子を自宅で解体して食べたという。

    まさに、人類史上最大の人災と言えるだろう。大躍進政策の致命的な失敗により、


    さすがの毛沢東も責任を取らざるを得なくなり、

    1959年4月27日、国家主席の地位を

    劉少奇に譲ることとなった。

    そこからの復讐・粛清が文化大革命なのである。


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中国民族の大量殺戮と粛清の歴史をさかのぼると

[中国史参照するといいですよ]

1644年~1912年 【清】(しん)

  • 城内の全ての人間を屠殺する

    清(正式には大清(だいしん))、は清朝ともいい、1616年に満洲において建国され、

    1644年から1912年まで中国とモンゴルを支配した最後の統一王朝である。

    首都は盛京(瀋陽)、後に北京に置かれた。

    満洲族の愛新覚羅氏(アイシンギョロ氏)が建てた征服王朝

    最後の征服王朝1644年に都を北京に移した清は、


    中国南部に残っている明朝の残党狩りのために征服戦争に打って出る。

    これがすさまじい。「屠城(とじょう)」と言って、

    「城内の全ての人間を屠殺する」のである。こう言うと、

    屠城とは街中の市民全員を殺すことなのである。
       
    清の征服軍が行なった屠城で有名なものの一つは

    1644年の「揚州屠城」であるが、当時揚州は既に

    人口100万人の大都市であった。その都市で大虐殺が実行された。

    かろうじて生き残った王秀楚という人物が、『揚州十日記』という記録を残している。

    「数十名の女たちは牛か羊のように駆り立てられて、少しでも進まぬとただちに殴られ、あるいはその場で斬殺された。

    道路のあちこちに幼児が捨てられていた。

    子供たちの小さな体が馬の蹄に蹴飛ばされ、人の足に踏まれて、内臓は泥に塗れていた。

    途中の溝や池には屍骸がうず高く積み上げられ、手と足が重なり合っていた」。この記録によれば、

    屍骸の数は帳簿に記載されている分だけでも八十万人以上に達したという。


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紀元前221年 - 紀元前206年 【秦】(しん)
  • 中国史の伝統――思想弾圧・大量殺戮・粛清

    征服王朝から、初めて中国を統一した秦。

    秦の始皇帝歴史に名高い中   国史を貫く特徴とは、思想弾圧、大量殺戮と粛清である。

    「焚書(ふんしょ)・坑儒(こうじゅ)」(書を燃やし、儒者を坑する(儒者を生き埋めにする))を行なった。

    秦の大量殺戮と内部粛清である。『史記』の『白起列伝』には、
    中国統一に至る過程でのすさまじい殺戮が記述されている。例えば、

    紀元前293年
    秦軍は韓と魏(ぎ)の連合軍を破るが、この時
    24万人を斬首している。その後も
    数万人レベルの斬首はざらで、
    最もすさまじかったのは紀元前260年の長平の戦いである。この時、

    秦軍は山西省高平県の長平で45万の大軍を擁した
    趙(ちょう)軍を降伏させる
    戦闘中で命を落としたのは5万人。残りの40万人は捕虜となったが、

    秦の白起将軍により
    40万人の捕虜ほぼ全員が生き埋めにされて処刑(坑殺)された

    紀元前210年

    始皇帝は巡幸中に死亡すると、粛清の嵐が始まる。
    宦官・趙高(ちょうこう)と
    宰相・李斯(りし)(始皇帝の身辺の世話をしていた)は、

    長男の扶蘇(ふそ)を自殺に追い込む(始皇帝から後継指名を受けていた)、次男の
    胡亥(こがい)を二世皇帝に据え、権力をほしいままにした。傀儡政権を樹立した後は、

    趙高李斯以外のグループの
    重臣を次々に殺戮。次いで

    胡亥の兄弟である12名の皇子を処刑し、10名の皇女を磔にした。ところが、次はさらなる内紛と粛清である。今度やられる方に回ったのは
    李斯であった。

    趙高は権力独占のために邪魔になった李斯を追い落とすため、謀反の罪をかけ、皇帝の名において逮捕させる。
    そして例によって一族皆殺しである。
    これを「族誅(ぞくちゅう)」と言うが、族誅は中国史の伝統である

    凄惨な粛清はさらに続く。
    趙高は、今度は二世皇帝・
    胡亥を自殺に追い込み、
    始皇帝の孫である
    子嬰(しえい)を3世皇帝に立てるが(紀元前207年)、
    既に自らの力も国の力も衰え切っており、今度は逆に
    趙高一族が
    子嬰によって誅殺されることになる。因果である。

    なお、

    子嬰が即位した翌年、紀元前206年には滅びてしまうのであるが、滅ぼしたのが有名な
    項羽劉邦である。この時、
    項羽がやったこともすさまじい。

    項羽は秦の首都・咸陽(かんよう)に向かう途中で造反の気配を見せた
    秦兵20万人を穴埋めにして殺している。また、

    子嬰が降伏して秦が滅亡した後、

    項羽
    子嬰一族や官吏4千人を皆殺しにし、咸陽の美女財宝を略奪して、さらに
    始皇帝の墓を暴いて宝物を持ち出している。そして

    殺戮と略奪の限りを尽くした後、都に火をかけ、咸陽を廃墟としたのである

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紀元前206年 - 8年 
【漢】(前漢)を建国

【前漢】(ぜんかん)とする。


  • を滅亡させた紀元前221年 - 紀元前206年秦(しん)

    項羽 (こうう)と 劉邦(りゅう ほう)前漢の初代皇帝の時代の漢族は滅びた

    項羽劉邦であったが、その直後から対立は始まり、楚漢戦争が勃発。

    紀元前202年の垓下(がいか)の戦いで

    劉邦項羽をやぶり、

    劉邦も功労者に封土と王位を与えた。しかし、
    功労者は実力者であり、天下を取った後は目ざわりでしかない。

    楚(そ)王韓信梁(りょう)王彭越(ほうえつ)ら天下統一に最も貢献した者たちは、謀反の疑いをかけられ、

    一族皆殺し、族誅された。 しかも、
    梁王・彭越誅殺された後、塩漬けにされ、その肉は群臣に漏れなく配られた。

    「こういう目に遭うぞ」という恐怖政治の極みである

    劉邦は紀元前195年に亡くなるが、
    その時には王位についているのは、ほとんど劉氏一族の者ばかりとなっていた。

    高祖・劉邦が没して
    劉盈(恵帝)が即位すると、
    劉邦の妻・呂后(りょごう)は皇太后としてその後見にあたる。この呂后がまたすさまじい。まず、
    恵帝の有力なライバルであった
    高祖・劉邦の庶子である趙(ちょう)王
    如意(にょい)とその生母・
    (せき)夫人を殺害した。この時の

    呂后の殺害の仕方は、猟奇的などという次元をはるかに超えている。
    呂后夫人を奴隷とし、

    趙王如意(チョウ オウ ニョイ)殺害後には、
    夫人の両手両足を切り落とし、
    目玉をくりぬき、薬で耳・声をつぶし、その上でまだ生きたまま便所に投げ入れて人彘(人豚)と呼ばせたという。

    呂后は我が子である
    劉盈(恵帝)以外のほとんどの
    劉邦の息子を殺し、呂氏一族を要職に付け専横を欲しいままにする。
    しかし、これまた因果は巡るで、

    呂后の死後、逆に
    呂氏一族は族誅(ぞくちゅう)される側に回り、皆殺しされるのである。


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【漢】はこの後、

  • 血気盛んに領土を拡大した武帝の時代などを経て、約200年でその時代を終える。

    帝室の外戚である王莽(おうもう)が、事実上国を乗っ取り、

    紀元8年【新】という王朝を建てる。しかし、この
    【新】」王朝は、

    紀元17年に始まった反乱の全国的な拡大により、わずか15年でその幕を閉じる。

    戦乱と飢餓による人口の激減というのはどの国においてもあったことだが、
    とりわけ中国においては甚だしい。

    37年に劉秀(後漢の光武帝)による天下統一で誕生した。


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【後漢】であるが、長くは続かなかった。
184年に黄巾の乱、五斗米道の乱と相次いで宗教秘密結社による反乱が起こり、
それがきっかけとなって各地に群雄が乱立する天下大乱の時代に突入する。

『三国志』の時代の到来である。『三国志』の時代と言うと、血沸き肉踊るイメージがあるかもしれないが、
現実には戦乱が打ち続く歴史上稀に見る悲惨な時代であった。

黄巾の乱後、正史の記録には、
「白骨山のように積み」「人は共喰」「千里に人煙を見ず」といった記述が多い。
   
【後漢】の時代、人口は5000万人を超えるところまで増えた。
それが戦乱の三国時代にどこまで減ったのか。
なんと約十分の一になったと言われてる。事実上、それまでの
【漢族】は滅びたと言ってよい。

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220年-280年 【三国時代】(さんごくじだい)

  • なお、『三国志』とは、魏(ぎ)・呉(ご)・蜀(しょく)の三国が争った三国時代の歴史を述べた歴史書
    三国時代という内戦時代の後、一時的に

    【晋】が中国を統一するがわずか20年で瓦解し、再び戦乱と分裂の時代に突入する。
    五胡十六国時代」である。

    【五胡】とは、

    【匈奴】(きょうど)・【鮮卑】(せんぴ)・【羯】(けつ)・【氐】(てい)・【羌】(きょう)の五民族を意味し、
    十六国とは北魏末期の史官・崔鴻が私撰した『十六国春秋』に基づく表現で、

    実際の国の数は16を超えた。要するに、従来の漢族が内戦により自滅的に激減した状況下で、
    様々な民族が中国の中に入り乱れ、小国を建てる時代が到来したのである。

    「五胡十六国時代」は
    304年から439年まで続き、
    439年に至って従来の中華である中原から現在の北京を含む華北一帯を北魏(ほくぎ)が統一する。では、
    この北魏を打ち立てた民族は何だったのか。
       
    先の五胡の中の鮮卑。鮮卑とは北方の遊牧民である。
    それに対して、わずかに生き残った従来の漢族は南に逃れて王朝を建てた。
    そのためこの時代を中国における

    「南北朝時代」(439年~589年)と呼ぶ。

    南北朝時代に終止符を打ったのは

    隋による中国統一であるが、この隋も鮮卑による王朝であった。

    「五胡十六国時代」から隋の時代にかけて、中国語は大きく変質した。

    鮮卑(中国北部に存在した遊牧騎馬民族)は文字を持たなかったため、

    話していた言語がテュルク系であったかモンゴル系であったか、正確には分からない。

    ただ、アルタイ系言語(北東アジア・中央アジアから東欧にかけての広い範囲で話されている諸言語)で

    あったことはほぼ間違いない。

    の天下統一の直後、601年に鮮卑人の陸法言という人物が、

    『切韻』という字典を編纂する。これは漢字を発音別に分類し、

    漢字の発音の標準を定めようとしたものであるが、そこにはアルタイ系発音の特徴が随所に見られる。このことからも、

    この時代の中国人は、すでに始皇帝劉邦の時代、秦・漢時代の中国人の子孫ではなかったことが分かる。

    なお、五胡十六国の諸国や北朝、あるいは隋・唐は、

    既に述べたなどと同じく異民族王朝であるが、

    明確な征服行為を欠くため「征服王朝」とは呼ばれず「浸透王朝」という用語で定義される。

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20世紀を迎えた。

  • そこで最大の試練を迎える。共産主義国家・中華人民共和国の誕生。

    そして、さらに壊滅的打撃を与えたのが文化大革命である。

    「宗教はアヘン」という中国共産党が政権を奪ってから、政府は寺を壊し経典を燃やし、

    僧侶や尼を強制的に還俗させたほか、他の宗教施設の破壊もずっと止めなかった。

    1960年代には、既に中国の宗教施設は壊滅的状況であった。

    宗教の自由を求める人達は、台湾や、英国統治下の香港に脱出して行ったので、

    中国仏教の伝統は、大陸よりも、台湾や、香港で維持されてきたと言える。

    そして文化大革命である。

    念のため、文化大革命について簡単に説明しておこう。正式にはプロレタリア文化大革命。略称「文革」。

    中華人民共和国で1966年から1977年まで続いた「封建的文化、資本主義文化を批判し、

    新しく社会主義文化を創生しよう」という名目で行われた改革運動である。しかし、その内実は、

    政権中枢から失脚していた毛沢東が、
    劉少奇からの政権奪還を目的とした大規模な権力闘争であり、

    死者は一千万人を超え、リンチを受けたり冤罪で投獄されたりといった被害者は
    一億人
    に及んだと言われる、

    世界史上でも例のないおぞましい大粛清であった。


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1368年 - 1644年 【明】(みん)の

  • 太祖・洪武帝によるすさまじい粛清

    中国史とは抗争と断絶の歴史であることを、

    「征服王朝」「浸透王朝」その最後は、狂気の弾圧と粛清である

    文化大革命(1966年に発動し、1976年)による破壊から一転しての国家主導による拝金主義であった。

    既に述べてきたように、秦に始まり、漢の劉邦や呂后、明の洪武帝、


    太平天国(清朝の中国で、1851年に起こった大規模な反乱)の

    洪秀全、そして
    毛沢東続くすさまじい粛清というのも、中国史の伝統と言えるだろう



http://www.saisei21.jp/report/2012/report-1日本再生レポートより一部お借りいたしました。


(参考文献
『中華帝国の興亡』(黄文雄著・PHP研究所)
『読む年表 中国の歴史』(岡田英弘著・WAC)
『中国文明の歴史』(岡田英弘著・講談社現代新書)
『中国大虐殺史』(石平著・ビジネス社)
『200年企業』(日本経済新聞社著, 編集・日経ビジネス人文庫)
『百年続く企業の条件』(帝国データバンク 史料館・産業調査部 編・朝日新書)
『情報亡国の危機 』(中西輝政著・東洋経済新報社)
『毛沢東 大躍進秘録』(楊継縄著・文藝春秋)
新興国情報EMeye
Bloomberg
中央日報
サーチナニュース
大紀元時報
Wikipedia)

最後までお読みいただきましてありがとうございます。転載などご自由にお使いください。
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