【政治を読む】TVメディアは政治を歪め国民に信じ込ませてきた

蓮舫中国共産党と吉永小百合。日本を内側からとりこむ『基本的に中国人は全員スパイと考えた方が良い。人種偏見などではなく、中国の社会制度がそうなっているからです。中国が急に「有事」と定めたら、日本に送り込まれた中国人たちが暴動を起こし 略奪殺人強姦放火等々の日本破壊が始められるように、全員が工作員となるように定められている。「中国、日本共産党と在日韓国朝鮮人が引き起こしてきた謀略の数々」

本当の「南京大虐殺」歴史学上の定説となっている、太平天国の乱曾国藩の死後趙烈文は『能静居士日記』の中で南京住民にたいする虐殺を証言している天京に攻め入ったある外国人の傭兵が、城内での目撃談を、英国の植民地だったインドで発行している新聞『インドタイムス』で語っている。

17 2017

「南京大虐殺物語」は、清く正しく礼儀正しくと厳しく育てられ、
必要以上に気を使う日本人の心を萎えさせる材料として格好のネタだった。


中国の日本乗っ取り工作の実態―それは田中角栄が始まりだった。

1971年

  • 朝日新聞の本多勝一(ほんだ かついち)という記者が書いた
    「中国の旅」が連載

1972年
  • 「中国の旅」が単行本になる。

    「南京大虐殺」があったと書き国際問題になっていく。

    ******************************************

    中国史上の本物の「南京大虐殺」外国人の傭兵が虐殺を証言

    1864年、曾国藩(そうこくはん)率いる湘軍(清の正規軍ではなく漢族の軍隊。北洋軍閥の源)は

    太平天国の首都である 天京(南京)に攻め入った

    現在のところ、「天京屠城」で殺された住民たちの数は少なくとも10万人以上であるというのが

    歴史学上の定説となっている。これこそが、

    ◊中国史上の本物の「南京大虐殺」なのである。

    曾国藩自身は朝廷への報告書でこう記している。

    「吾が軍は賊都の金陵(南京の別称)に攻め入ってから、

    街全体をいくつかのブロックにわけて包囲した上、賊軍を丹念に捜し出して即時処刑を行ないました

    3日間にわたる掃蕩作戦の結果、

    賊軍10万人あまりを処刑しました」。
    この殺戮が賊軍だけではなく、多くの民間人にも及んだことだ。

    曾国藩の死後
    趙烈文(ちょうれつぶん)は『能静居士日記』の中で、

    南京住民にたいする湘軍の虐殺を証言している
    湘軍と共に天京に攻め入ったある外国人の傭兵が、城内での目撃談を、

    英国の植民地だったインドで発行している新聞『インドタイムス』で語っている。

    ***********************************

    http://xianxian8181.blog73.fc2.com/blog-entry-8.html(参考)
    1971年
    • 朝日新聞の本多勝一(ほんだ かついち)という記者が書いた
      「中国の旅」が連載

    1972年
    • 「中国の旅」が単行本になる。

      「南京大虐殺」があったと書き国際問題になっていく。

      1972年9月29日、田中角栄首相が訪中し、日中国交正常化の共同声明があったんだけど、

      ”日本人と中国人の関係を徹底的にブチ壊し”、
      とする向きも盛んに出ているが

      この時すでに
      中国の日本乗っ取り工作は田中角栄によって始まっていた。

      田中内閣による中日共同声明成立までの日本解放≪侵略≫(第一期)工作組は、
      事実でこの教えの正しさを証明した。と記述された秘密文書が見つかっている。
      「日本解放第二期工作要綱」 中国共産党日本侵略計画【秘密文書】(詳細ページへ)

      日本人に対する世界中の評判を奈落の底に落とすことを目的とする工作は始まっていた。



    1984年(昭和59)8月4日付の
    • 朝日新聞(西部本社版・夕刊)と翌日の全国版には、

      「日記と写真もあった」「南京大虐殺」「悲惨さ写した三枚」「宮崎の元兵士」「後悔の念をつづる」と大々的に紹介。

    1986年(61年)1月21日、
    • 朝日は「全国版」に「おわび」記事を、小さく掲載。

      「改めて本社で調べた結果、日記は現存しますが、
      記事で触れている写真3枚については南京事件当時のものではないことがわかりました。
      記事のうち、写真に関する記述は、おわびして取り消します」


    1985年
    • 消極的だった中国にごり押しして民主党の議員・田辺誠(旧社会党)が
      日本人の税金で南京に「南京大虐殺記念館」を設立。

      社会党(社民党=民主党=民進党)は拉致共謀の疑惑もある
      (この件は墓場まで持っていくと語っている)

      疑惑表記
      日中戦争初期の南京攻略戦時に、
      日本軍将校2人が日本刀でどちらが早く100人を斬るかを競ったとされる競争だが、
      日本刀を戦場に持っていったのかなぁ?
      日本刀で、人間を100人斬ることは不可能、せいぜい斬って3人との指摘もある。


      とにかく、それまでの中国側はそれ等に関することは何も言っていなかった。
      発端は朝鮮密入国者在日朝鮮人である。現在においても引き続き行われている。


    ****************************************


    中国の対日工作について(マスコミ工作の経緯と実態) 安全保障第45号
    http://www.kokuboukyoukai.jp/news-45-2.html(参考)

    「自らの国を自らで守る」
          国民の意思があれば
             この国の明日が見えてくる。!!
    公益財団法人 日 本 国 防 協 会


    中国共産党の出版 マスコミ工作

    • 我が国への好感、親近感を抱かせるものを、第一に取り上げさせる。
      風物、写真集、随筆、家庭の主婦が興味を抱く料理、育児所の紹介など、受け入れやすいものを多面に亘り出版させる。

      その上、マスコミの主流から締め出された反動極右の反中国の言動は、
      単行本に出路を求めているが、これは手段を尽くして粉砕せねばならない。

      真実を伝えると称してなされる暴露報道を絶対に放置してはならない。
      これらについては、日本政府に厳重に抗議すると共に、
      出版社主、編集責任者、業者を告訴して根絶を期すべきである。
      他一般娯楽の出版については「性の解放」に関する春本等を氾濫させる。

    「虚偽報道」毎日新聞の犯罪慰安婦捏造に並ぶ、
    毎日新聞が10年以上に亘って、外国に日本人紹介記事として出す。
    1989年~2001年日本人の紹介、日本人はこういうものであるという、英語の記事 。
    (詳細ページへ)

    • 2.戦中の工作活動
      • 1928年
        上海のフランス租界で赤衛隊なるものが作られ、
        周恩来は指導的役割を担い、国民党と熾烈な諜報活動を展開した。
        この当時の中国共産党は日本を利用し中国国民党の勢力を削ぐことにあった。

      • 1935年
        中国共産党は直接日本軍との衝突を回避していたが、
        この頃から抗日戦争を鮮明にし、日本軍への妨害活動を公然とするようになった。

      • 1938年4月、
        中国国民党宣伝工作部門の責任者たる郭沫若による宣伝工作は、
        軍隊宣伝、国際宣伝、対敵宣伝の三つからなり、
        その方法は活字新聞・雑誌等、放送、芸術の三分野に分かれていた。
        またこの宣伝工作には多くの内外の専門家が集められ活動に加わった。

      • 1941年5月、
        中国共産党日本労農学校が開設され、八路軍の敵軍工作、
        日本軍捕虜の生命安全と優遇、日本軍内外の軍国主義反対闘争の宣伝教育、反戦厭戦機運の高揚等を任務とした。
        敵軍工作を専任する中国人を教育し、
        日本の降伏後これらに係わった者は公安部へと配置換えされ戦後に引き継がれて行った。

        対日工作の具体的活動の事例としては、
        盧溝橋事件(1937年7月7日)や南京大虐殺(1937年12月13日)がある。
        いずれもいくつかの実証によって事実と異なる事象が、あたかも全てが日本軍による仕業として喧伝された。
        これらは、中国の対日工作が成功したもので、その永年にわたる宣伝工作に、
        日本と日本人は、今日に至るも歴史問題の枷の中にいる。



    • 3.戦後のマスコミ工作
      • 1945年
        日本の敗戦によって、中国では共産党と国民党間の妥協的態度は一変し、国共内線へ突入した。
        戦後の初期の対日工作は1949年10月中華人民共和国成立後になる。

      • 1952年12月、
        北京放送は日本向けに「中国紅十字会は日本人の帰国を援助する用意がある」と放送、
        その後日本の三団体日本赤十字会、日中友好協会、
        平和連絡会等と折衝、約4万人の日本人が帰国することになる。

        第一陣は興安丸で1953年3月舞鶴に到着している。
        この時の帰還者の中から新中国のすばらしさが語られ、新聞報道の紙面を飾った。 

      • 1954年8月、
        報道各社の中国訪問受け入れ許可がされ、
        朝日、毎日、読売、日本経済、中日本、北海道、東京、共同通信、日本放送協会、ラジオ東京、ラジオ九州の各社代表が
        中国を訪問、周恩来にインタビューしたことが、戦後最初のマスコミの中国政府との接触の機会となった。

      • 1958年3月
        中国政治局が決定した「中共中央の対日政策活動についての方針と計画」によれば、
        「新中国対日政策活動計画」が挙げられ、日本の「世論喚起について」等を明記している。
        この対日宣伝の目的は「二つの中国を認めない」という点にあったといわれている。

      • 1964年
        「日中記者交換協定」により朝日、毎日、読売、産経、日本経済、西日本、共同通信、日本放送協会、東京放送の
        9社の特派員が北京へ、
        中国側から新華社、人民日報、光明日報、大公報、文匯報、日京日報、中国新聞の7社が相互に常駐することになる。

      • 1967年2月毎日新聞の高田記者への警告、
      • 1967年9月毎日、産経、西日本記者の国外退去措置、
      • 1967年10月読売の北京常駐資格の取り消し、
      • 1968年6月日経記者の逮捕と長期拘束問題へと発展等々マスコミへの干渉が続く。

        これにより日本のマスコミは次第に中国報道が一方通行となり、
        新聞、放送界においては中国に対して不利な記事は避けるようになり、
        事実から遠ざかる内容のものへと変わって行く。

      • 1964年4月、
        自民党の3議員が訪中し、
        「新聞記者交換会談メモ修正に関する取り決め事項」(日中記者交換協定)に調印した。

        これにより、
        「①中国を敵視しない、
        ②二つの中国を作る陰謀に係わらない、
        ③日中国交正常化を妨げない」という

        「政治三原則」との政教不可分の原則を確認するに至った。

        その後中国共産党による検閲に拘束され、上記事項を批判はもちろん、自由な報道さえも困難になる。
        朝日、NHK、毎日等にその傾向が顕著となる。
        中国のマスコミ工作に屈したのである。

      • 1972年4月
        衆議院予算委員会で、佐藤栄作総理大臣福田則夫外務大臣は、
        この協定は民間協定で政府は関与し承知していないと答弁をしている。

        しかし、現在まで
        日本の報道機関の取材は、中国政府の監視下に置かれ、
        マスコミへの対日工作は着実に進んでいる。


      • 1972年9月、
        北京において、田中角栄首相のもと日本国政府と中華人民共和国政府間の共同声明が発せられた。
        また、
      • 1978年8月には、日中平和条約により覇権否定他経済文化関係の発展と交流の促進等を定められた。

        「日本列島改造論」を論じた頃の田中角栄は通商産業大臣であつたが、
        時の予算審議委員会で「日中国交正常化を実現するには中国大陸に迷惑をかけたことに謝罪したい」との発言に、
        周恩来は注目していたという。

        従って田中が中国にとって好ましい人物として受け止められていたことが、
        日中友好共同声明に繋がったと言われる。
        この声明により日本では専ら友好万歳の報道であったが、

        中国には「日本の懐柔、強いては日本の資金と技術を導入する」という冷徹な計算があり、
        日中友好を情緒的に受け取止める日本人は中国の本音に気づかなかった。

         
        これにより中国の諜報機関の活動は一層活発化し、
        「政財界と大手新聞社」への工作が奥面もなく始まることになった。

        多くの政財界人は弱みを握られ、中国に堂々とものを言うことが出来なくなり、
        対中支援資金や中国投資資金の多くは、中国銀行を通す事を求められることになった。

        中国銀行は諜報機関の拠点とも言われ、中国報道等についても次第に規制されることになった。
        日本側の思惑とは異なる方向へと進み始めたのである。

      • 1974年1月
        「日中常駐記者交換に関する覚書」を北京で調印、
        日中双方の記者が常駐するという現在の体制の基盤ができた。
         
        内容は
        日中友好の精神に反して、即ち反中国的で、
        台湾独立を支持する報道機関と特派員は中国に受け入れられない
        」というものであった。

      • 1970年代、
        田中首相による日中共同声明、
        日中友好条約中国にとって、中ソ対立の世界戦略上重要であつた

        これ以後三木首相福田首相大平首相へと移るが、その間中国の対日工作は盤石となる。

        毛沢東、周恩来が死去し、華国鋒、鄧小平時代には少し日中関係は鈍化したが、対日工作は着実に進行していた。

      • 1980年代に入り、

        日本のテレビ放送による「中国残留孤児の再会」の映像は、中国諜報機関の工作の成功例といわれる。
        この映像によって、日本人の警戒心が薄れる一因となったのである。
        マスコミ工作の成功例でもあった。

        中国の改革開放が始まると対日工作の一貫として、
        日本企業の誘致のためマーケッティング活動が活発化し、中国進出が続くことになる。

        日中友好は日本国民が本質を熟知しない間に

      • 1979年
        大平首相時代から
        ODA(政府開発援助)として有償、無償の援助協力、技術協力が始まるのである。

      • 1972年の国交回復から
        2005年までの27年間に日本はあらゆる援助を続け政府ベースだけで、

        1979年から始まった
        ODA(政府開発援助)は
        • 有償資金協力(円借款)3兆1331億円
          無償資金協力1457億円
          技術協力1446億円
          総額約3兆5000億円という支援額に達している


        そのほか民間でも約2000社が年間約50億ドルという投資を繰り返し資金や技術を提供して来ている。
        日本政府はODAの有償資金協力(円借款)を2008年の五輪前に打ち切り、

        2006年4月返済不要な無償資金協力も打ち切ることを固めたが、他の援助についても見直すべき時期に来ている。

      • 1981年3月
        「外国人記者駐在管理暫定規定」が公布され、記者の活動は種々制約を受ける。

      • 1989年6月、
        天安門事件(64天安門事件)が起き日本人の中国感に変化を与え、中国への友好感情は遠ざかり始める。
        また中国の工作はマスコミとともに、財界を重視する方向に舵がきられた。
        小泉首相時代、中国は江沢民から胡錦濤へ政権が変わり、

        靖国問題、原潜の領海侵犯、東シナ海問題、日本の安全保障理事会・常任理事国入り等の摩擦が起こる。
        これにより中国の工作活動は鈍ることになる。

      • 1990年1月
        「外国人記者及び外国駐在報道機関管理条例」を国務院が公布、中国報道はさらに制約される。
        これによって、 日本の記者は、

        「外国人記者駐在管理暫定規定」「外国人記者及び外国駐在報道機関管理条例」等により
        他国の記者と同様に適用されるとともに、

        1974年日中両国政府間で調印された「日中常駐記者交換に関する覚書」があり、
        他国の記者より一層強い制約を受けることになった。

        欧米のマスコミは北京と台北に支局を置くことに制約を受けないとされている。
        AP、UPI、ロイター、AFPの四国際通信社は北京と台北に特派員を置き、

        ニューヨクタイムス、ワシントンポスト、ウォールトジャーナル、ロスアンゼルスタイムスの
        米国有力紙は北京に常駐記者を置き、さらに台北にも記者を派遣している。

        これに対し、台北への派遣を制約されている日本政府と日本記者協会が抗議したということは聞かれない。
        これも中国の対日工作の延長上にあるのである。

      • 2002年2月、
        「中国出版管理条例」を発布したが、

        その第49条の
        第1項には、中国共産党の指導を称揚、
        第2項は中国を大国と認識させ、
        第3項は経済協力、
        第4項は日本の技術移転、
        第5項は日中友好を維持、
        第6項では歴史を認識させ、
        第8項で台湾解放に協力させる、また
        第9項は米国を牽制し、
        第10項はソ連に備える、等の意味のものが定められた。

        「日中記者交換協定」と同様に、中国の意図する方向に、
        マスコミを誘導し、排他的、一元的なコミユニケーション環境を作り上げている。
         
        その上、あらゆる在日中国人学者、学生の一般誌への論文発表、
        出版、ホームページ、中国語会話スクール、テレビ番組、TVコマーシャル、
        高等教育機関への関与までに至る広範囲の統制がなされ、二重三重に身動き出来なくなっている。

      • 2006年1月、
        北京における日中政府間協議において、
        中国外務省崔天凱アジア局長が「日本のマスコミは中国のマイナス面ばかり書いている。
         
        日本政府はもっとマスコミを指導すべきだ」と発言した。
        この言葉は、中国のマスコミに対する認識と、姿勢がよく表れている。

      • 2006年8月、
        中国の唐家旋国務委員が日本経済新聞杉田社長に、
        「日本のメディアが中国の対日政策を日本国民が正しく認識するよう導くことを期待する」と求めた(産経新聞)。

        「日中記者交換協定」はその後「覚え書き」が加わったが、現在も生きている。
        これに対して新聞記者協会等の抗議は遠慮がちに抗議文を発表したものの批判は相変わらず聞かれない。
        また、政府は曖昧な態度しか示していないので、中国に既成事実を認めて今日に至っている。

      • 2008年11月号の
        WILLによれば、日本で反日を煽る中国語新聞が乱発されている。
        これによると「日本国内で数多くの中国語新聞が発行されている。

        その数は20紙以上で、
        主な反日中国系新聞は、新民晩報、中文導報、陽光導報、日本留学生新聞、
        日中新聞、中華新聞、華風新聞、日中商報、半月文摘、網博週報、聯合週報、
        時報週刊、知音報他で、親日的なものは少なく華人週報、大紀元時報、日本新華僑報、新華時報等」と紹介されている。
         
        書店に行くと中国雑誌の急増には驚かされる。
        しかも発行者は新華社通信、国務院新聞弁公室、南方都市報・南方都市メディア集団管理、
        国家新聞出版社等であり、国家的な戦略として新しい流れが創造されている。
        このような中国共産党系の新聞雑誌類の普及について日本国民は一般的に無関心である。


    • 4.最近の工作

      • 2007年1月、中国製冷凍ギョーザの中毒事件が発覚、
        2月、中国国家品質監督検査権益総局王大寧局長は、日本の報道が過熱過ぎると懸念を表明の上、
        日中間の対中輸出製品に何らかの報復措置をとるとした牽制とも受けられる指摘をした。
        日本に問題ありきという姿勢であつた。
         
        同年6月、中国天洋冷凍ギョーザを食べた中国人が、
        メタミドホスの中毒症状をおこしていたことが分かったと、中国側から日本に知らされていた(読売新聞)。

      • 2008年8月、
        日本政府は「サミット、オリンビックという事情を踏まえ、
        中国側からの要請で公表を控えた」ことが明らかになった。
        中国擁護とも思われる外務省の姿勢には、中国の強力な工作があったと自覚しなければならない。

      • 2008年4月26日、
        長野の市内は「赤い集団」により埋められ、市民は身を潜めた。五輪の聖火リレーを見に来ても中国人は見えても、長野市民は近寄ることもできなかった。
         日本に滞在中の中国人の多く(留学学生を中心)は、日本にいながらいつでも自国の中国政府の指示を優先し、日本国の規則は何時でも無視できるという行動に出た。
        一体この人達は日本へ何をしに来ているのか。
        この「赤い集団」の移動に埋められ市民が中国旗のポールでケガをしたにもかかわらず、日本側に逮捕者がでたが中国関係者には音沙汰なしであつた。
         これらの行動と対応によって、中国の在日「解放工作組」の存在と、政府、マスコミへの工作の実態が明らかになったのである。

      • 2008年5月、四川大地震により、日本の救援隊が到着したにもかかわらず、長期にわたり活動は止められた。
         また開始された遺体収容作業と医療活動は震源地より離れたところで行われ、明らかに政治的な工作、意図が人命救助に優先されたのである。
         さらに、この被災地域は核施設の集中するところで、中国政府は、「埋もれた放射源は50個あり、そのうち35個がすでに回収された」と当初の発表を修正報道した。
        また、中国核工業建設公司は、「プルトニュウムと核弾頭を生産する821工場は甚大な被害を受けた」と修正報道した。
        またアメリカのマスコミには、核施設の爆発の可能性を示唆するものもあった。
        これらについての日本のマスコミの報道姿勢には、中国に対する自制が強く働いており、大きく取り上げられることはなかった。

      • 2008年6月福田内閣は、東シナ海ガス田問題で「中国側の譲歩を勝ち取り」、日中中間線附近での「共同開発」を中国側に認めさせたと発表した。
         しかし、中国側は全く反対に解釈しており、中国の主張する「沖縄トラフ境界線」の布石で、これにより大手を振って同海域の開発に出てくるであろう。
        日本に対して「共同開発」は甘い言葉の上で、次第に支配を及ぼして来るに違いない。


    • 5.おわりに日本における中国情報は、
    • 1964年「日中記者交換協定」1974年「日中常駐記者交換に関する覚書」等 により今現在も縛られている。
      これは
      • 1978年8月
        日中平和条約が締結される以前のもので、本来はこの時に破棄されるべきものであった。

      • 1972年4月衆議院予算委員会で、佐藤総理大臣、福田外務大臣の答弁は、
        この協定は民間協定で政府は関与し承知していないと述べたのみで、
        日本国として歴代の政権担当者は、触れた形跡がない

        「日中記者交換協定」 には、東大・田中明彦研究室によると、
        40年以上前の民間協定に日本の派遣員が束縛されることはあり得ないとしている。

        テレビ局の報道は中国の意向に合わないようであるとチェックされ、
        抗議、脅迫、訂正要求等の干渉を受けている。
        中国人の諜報活動はやりたい放題になりつつある。

        日本や台湾等に半世紀以上をかけて築き、工作活動を続けて来た成果であり、
        工作要綱の示す通り各種団体、学者、学会、学生、報道機関は関与され何も言えないように仕向けられるという。
        情報工作が現実化し始めている。

        マスコミ関係者は情報を得んがため、自らの国家利益を損なうような選択をすることの是非を考えてもらいたい。
        政府関係者と共に毅然とした態度で臨めばおのずから相手国の対応も変わってくるだろう。

        日本のマスコミ及び政府関係者は強く改善を求めるべきで、単に政府の当時の答弁のみで済まされる問題ではない。
        日中友好の中国側の真の意味を理解しないまま、言葉の魔術にかかっている。

        日本のマスコミ関係者は一部新聞を除き中国の顔色を伺うという自己規制をしすぎていないか。
        日本の安全保障は、この様な面からも崩されつつある。

        中国の工作活動は、20年から30年或いはもつと長いスパンの元に行動し続けているし、今後も変わらないであろう。
        片や日本は戦略思想に欠け戦後は米国の庇護のもと短期的な対応に終わって来たように思える。

        米国は自国の国益の元に行動しているわけで、日本としても独自の工作活動への防衛策を講じて行く必要がある。
        中国の目的は日米離反であり、日本の技術力を中心とする国力の利用と抑制である。

        このため日本のマスコミ界を監視下におき言論操作を行い、かつ日本の技術を如何に奪い取り、
        政治的影響力下に置くかを狙っている。

        対日工作は今後も限りなく続き、このような状況にありながら有効な対策を打てず、
        日本は無防備の状態にあり、日本の安全を守るために早急な対策が求められている。

        http://www.kokuboukyoukai.jp/news-45-2.html「自らの国を自らで守る」
              国民の意思があれば
                 この国の明日が見えてくる。!!
        公益財団法人 日 本 国 防 協 会

        安全保障第45号
        中国の対日工作について(マスコミ工作の経緯と実態)


****************************************


本当の「南京大虐殺」、太平天国の乱

洪武帝朱元璋(しゅ げんしょう)(明の創始者であり、初代皇帝)が

のし上がるきっかけとなった白蓮教(びゃくれんきょう)(白蓮教の信徒が起した反乱である。)

1644年から1912年清朝の時代にも大きな反乱を企てる。

1796年~1804年白蓮教徒の乱

清朝末期には、こうした宗教結社による反乱が相次ぐが、中でも

死者五千万人とも人口の五分の一が死亡したとも言われ、

「人類史上最大の内乱」とされるのが太平天国の乱である。

太平天国の乱を起こしたのは、キリスト教系の「拝上帝会」と言う結社である

(ちなみに、時期を前後してイスラム教結社の反乱である回乱も勃発しているが、

当時から20世紀にかけて「洗回」と称する

イスラム教徒皆殺し運動が展開され、それによる

犠牲者は二千万人とも推定されている)。「天王」と称した

洪秀全はキリストの弟であると宣言し、

1847年に拝上帝会を創設した後、またたく間に勢力を拡大した。

1850年に広西省で蜂起した洪秀全は、

1853年南京を占領、「天京」と改めて都とし、太平天国の王朝を立てた。

南京を陥落させた時には、太平天国軍は20万以上の兵力にふくれあがり、水陸両軍を編成するまでに至っていた。

ものすごい勢いであるが、この進軍の過程で太平天国軍は、後世の

毛沢東たちがやったような

「一村一焼一殺」を日常的に行なっていた

歴史書の記録によると、太平天国軍が湖南省になだれ込んでからは、湖南全域において

10の村の中の7、8の村が襲撃された

いたるところで財宝が掠めとられて、地主、郷紳(素封家)の家々は

ことごとく皆殺しにされた

屍骸が野に横たわり、血が流れて川となった。湖南開省以来、未曾有の大災難」であったという。

しかし、この略奪・殺戮が、後に太平天国自身の悲惨な最後を招く原因を作った。

太平天国軍による「湖南草刈り」の13年後の

1864年曾国藩(そうこくはん)率いる湘軍(清の正規軍ではなく漢族の軍隊。北洋軍閥の源)は太平天国の首都である

天京(南京)に攻め入ったが、この時の

大虐殺は報復とは言え、言語に絶するすさまじいものであった。後に

天京屠城」と称されるこの
大虐殺の実態はどういうものだったのか。

天京を落城させた後に湘軍がとった行動について、

曾国藩自身は朝廷への報告書でこう記している。

「吾が軍は賊都の金陵(南京の別称)に攻め入ってから、

街全体をいくつかのブロックにわけて包囲した上、賊軍を丹念に捜し出して即時処刑を行ないました

3日間にわたる掃蕩作戦の結果、

賊軍10万人あまりを処刑しました」。

3日間で10万人の処刑というだけでもすさまじいものだが、さらに常軌を逸しているのは、

この殺戮が賊軍だけではなく、多くの民間人にも及んだことだ。


曾国藩の死後、幕僚の一人であった

趙烈文(ちょうれつぶん)は『能静居士日記』の中で、

南京住民にたいする湘軍の虐殺を証言している

「わが軍が金陵に入城して数日間、民間人の老弱した者、

あるいは労役に使えない者たちは悉く斬殺され、街角のあちこちに屍骸が転がった。

子供たちも斬殺の対象となり、多くの兵卒たちが子供殺しをまるで遊戯を楽しんでいるかのようにしまくった。

婦女となると、40歳以下の者は兵卒たちの淫楽の道具となるが、

40歳以上の者、あるいは顔があまりにも醜い者はほとんど、

手当たり次第斬り捨てられてしまった」。こういう証言もある。


湘軍と共に天京に攻め入ったある外国人の傭兵が、城内での目撃談を、

英国の植民地だったインドで発行している新聞『インドタイムス』で語っている。

「私は朝廷の部隊が太平天国軍の捕虜たちを殺戮する場面をこの目で見た。

彼らは本当に軍の捕虜であるかどうかは定かではない。とにかく、


普段は野菜売場である町の広場に、捕虜とされる数百人の人々が集められてきた。

群れの中には男もいれば女もいる。老人もいれば子供もいるのだ。


歩くにも無理な老婆、生まれたばかりの嬰児、懐妊している婦人の姿も見られる。

朝廷の兵士たちはまず、若い女性たちを捕虜の群れの中から引きずり出した。


彼女たちをその場で凌辱(りょうじょく)した後に、

周りで見物している町の破落戸(ごろつき)たちの手に渡して輪姦させるのである。

その間、兵卒たちはにやにや笑っているが、


輪姦が一通り終わると、全裸にされた女たちの髪の毛を掴んで一太刀で斬り殺してしまうのだ。

それからが男たちの殺される番である。彼らは全員、小さな刀で全身の肉を一片一片切り取られて殺される。

何のためかはよく分からないが、心臓は、一つずつ胸の中から丁寧に抉り出されて、

用意された容器に入れられるのである。次に、子供たちが母親の前で殺され、母親たちも同じ運命となる」。


現在のところ、「天京屠城」で殺された住民たちの数は少なくとも10万人以上であるというのが

歴史学上の定説となっている。これこそが、

中国史上の本物の「南京大虐殺」なのである。


*********************************************
*********************************************

人間と認識するには、余りにもおぞましい中国人のDNA

中国では、人が人を食べるのが常態と化した。さすがに自分の子供を食べる親はいないから、

親は、死んだり昏睡状態に陥った子供をよその家に持っていき、

同じような状態のよその子と交換して自分の家に持ち帰り、その子を自宅で解体して食べたという。

まさに、人類史上最大の人災と言えるだろう。大躍進政策の致命的な失敗により、

さすがの毛沢東も責任を取らざるを得なくなり、

1959年4月27日、国家主席の地位を劉少奇に譲ることとなった。

そこからの復讐・粛清が文化大革命なのである。

文化大革命【Youtube】で映像を見る
◆英露独「日本人のルーツに韓国人は無関係だと判明した」キチガイ生物と韓国人のDNAが完全一致

【閲覧注意!真実の姿】


【日本人の真実の姿】




血で血を洗う抗争に次ぐ抗争という中国史の特徴を、

より具体的に言えば、その特徴は、思想弾圧・大量殺戮・大粛清である。

そして、現代中国・中華人民共和国ももちろんその性格を色濃く有している。

毛沢東が行なった「一村一焼一殺」と文化大革命は、

数々の戦慄するようなおぞましい行為。

毛沢東は、1928年から、湖南省・江西省・福建省・浙江省の各地に革命根拠地を拡大していくが、

その時の行動方針が「一村一焼一殺、外加全没収」であった。

意味は「一つの村では、一人の土豪を殺し、一軒の家を焼き払い、加えて財産を全部没収する」である。

1928年から1933年までの5年間で、「一村一焼一殺」で殺された地主の総数は、

10万人に及んだという。中国共産党が政権を取ると、

「一村一焼一殺」は中国全土に徹底して行なわれることとなった。

全土で吊るし上げにあった地主は六百数十万人。うち二百万人程度が銃殺された。

共産革命はどこの国においても大量殺戮と略奪を伴う惨たらしいものであるが

毛沢東の行動を知っていくと中国史の伝統の焼き直しにも見える

次は粛清である。現代中国の粛清と言うと、先に述べた文化大革命が思い起こされるだろうが、

実際には中国共産党が勢力を拡大して行く途上においても、

数々のすさまじい粛清が行なわれている。まず、

1930年から翌31年にかけての「AB団粛清事件」。

これは中国共産党史上、初めての大量内部粛清であるが、この時は7万人以上を処刑している。

政権を奪って権力を握ると、国家レベルで大粛清が行なわれることになった。

1951年、「反革命分子鎮圧運動」である。

毛沢東は「農村地帯で殺すべき反革命分子は人口の千分の一程度とすべきだが、

都会での比率は人口の千分の一を超えなければならない」という殺人ノルマを課し、

中国全土を反革命分子狩りの嵐が吹き荒れた。告発、即時逮捕、即時人民裁判、即時銃殺である

中国共産党の公式資料『中国共産党執政四十年(1949~1989)』によれば、

「反革命分子鎮圧運動」で銃殺された人数は71万人に上るという

(さらに129万人が「準革命分子」として逮捕され、終身監禁された)。粛清・虐殺はまだ終わらない。

1955年には「粛清反革命分子運動」によって8万人を処刑している。

思想弾圧・粛清の流れは「反右派闘争」などこの後も続き、

その流れの中に既に述べた文化大革命があるのであるが、文革のひどさはよく知られるところである、

文化大革命【Youtube】で映像を見る

最後に文革にもつながった「大躍進政策」について述べておこう。

先に、文革は政権中枢から失脚していた

毛沢東が劉少奇からの政権奪還を目論んで起こした大規模な権力闘争であり大粛清であると述べたが、

毛沢東の一時的失脚をもたらしたのが大躍進政策であった。

1957年11月6日、ソ連共産党第一書記・フルシチョフは、

ソ連が工業生産(鉄鋼・石油・セメント)および農業生産において15年以内にアメリカを追い越せるだろうと宣言した。

対抗心を燃やす毛沢東は、1958年の第二次五ヵ年計画において中国共産党指導部は、

当時世界第2位の経済大国であったイギリスを15年で追い越す(のちには「3年」に減少)という壮大な計画を立案した。

その中心に据えられた鉄鋼などは、

生産量を1年間で27倍にするというあまりにも現実離れしたものであった。

食糧も通常2.5億トンの年間生産高を一気に5億トンに引き上げることが決められた。

しかし、何の裏付けもないまま目標だけ勇ましく掲げても、実現できるはずもない。

1959年夏、共産党政治局委員で国防相の彭徳懐(ほうとくかい)が大躍進政策の再考を求めたが、

毛沢東が受け入れるはずもなく、逆に「彭徳懐反党集団」として断罪され、失脚させられる(彭徳懐は、

後の文革で凄まじい暴行を受け半身不随に。その後、監禁病室で下血と血便にまみれた状態のまま放置され死に至る)。

これ以降、同政策に対して誰もものを言えなくなり、

ノルマを達成できなかった現場指導者たちは水増しした成果を報告した。

当時、全国の人民公社は穀物の生産高に応じて、政府に食糧の無料供出を割り当てられていた。

「倍増」と報告された生産高によって、飢饉であるにもかかわらず、

農民たちは倍の食糧を供出しなければならなくなったのである。

その結果はすさまじい餓死者である。その数は、

わずか3年間で2000万人とも5000万人とも言われている(中国本土では発禁となった

『墓碑――中国六十年代大飢荒紀事実』によれば、人口損失は7600万人に上るとのぼるとされている)。

最後は、人が人を食べるのが常態と化した。さすがに自分の子供を食べる親はいないから、

親は、死んだり昏睡状態に陥った子供をよその家に持っていき、

同じような状態のよその子と交換して自分の家に持ち帰り、その子を自宅で解体して食べたという。

まさに、人類史上最大の人災と言えるだろう。大躍進政策の致命的な失敗により、

さすがの毛沢東も責任を取らざるを得なくなり、

1959年4月27日、国家主席の地位を劉少奇に譲ることとなった。

そこからの復讐・粛清が文化大革命なのである。


***********************************

◆本当の「南京大虐殺」、太平天国の乱◆

洪武帝朱元璋(しゅ げんしょう)(明の創始者であり、初代皇帝)がのし上がるきっかけとなった

白蓮教(びゃくれんきょう)(白蓮教の信徒が起した反乱である。)


1644年~1912清朝の時代にも大きな反乱を企てる。

1796年~1804白蓮教徒の乱

  • 清朝末期には、こうした宗教結社による反乱が相次ぐが、中でも

    死者五千万人とも人口の五分の一が死亡したとも言われ、

    「人類史上最大の内乱」とされるのが太平天国の乱である。

    太平天国の乱を起こしたのは、キリスト教系の「拝上帝会」と言う結社である

    (ちなみに、時期を前後してイスラム教結社の反乱である回乱も勃発しているが、

    当時から20世紀にかけて「洗回」と称する

    イスラム教徒皆殺し運動が展開され、それによる

    犠牲者は二千万人とも推定されている)。「天王」と称した

    洪秀全はキリストの弟であると宣言し、


1847に拝上帝会を創設した後、またたく間に勢力を拡大した。

1850に広西省で蜂起した洪秀全は、

1853

  • 南京を占領、「天京」と改めて都とし、太平天国の王朝を立てた。

    南京を陥落させた時には、太平天国軍は20万以上の兵力にふくれあがり、水陸両軍を編成するまでに至っていた。

    ものすごい勢いであるが、この進軍の過程で太平天国軍は、後世の

    毛沢東たちがやったような「一村一焼一殺」を日常的に行なっていた

    歴史書の記録によると、太平天国軍が湖南省になだれ込んでからは、湖南全域において

    10の村の中の7、8の村が襲撃された

    いたるところで財宝が掠めとられて、地主、郷紳(素封家)の家々は

    ことごとく皆殺しにされた

    屍骸が野に横たわり、血が流れて川となった。湖南開省以来、未曾有の大災難」であったという。

    しかし、この略奪・殺戮が、後に太平天国自身の悲惨な最後を招く原因を作った。

    太平天国軍による「湖南草刈り」の13年後の



1864

  • 曾国藩(そうこくはん)率いる湘軍(清の正規軍ではなく漢族の軍隊。北洋軍閥の源)は太平天国の首都である

    天京(南京)に攻め入ったが、この時の

    大虐殺は報復とは言え、言語に絶するすさまじいものであった。後に

    天京屠城」と称されるこの
    大虐殺の実態はどういうものだったのか。

    天京を落城させた後に湘軍がとった行動について、

    曾国藩自身は朝廷への報告書でこう記している。

    「吾が軍は賊都の金陵(南京の別称)に攻め入ってから、

    街全体をいくつかのブロックにわけて包囲した上、賊軍を丹念に捜し出して即時処刑を行ないました

    3日間にわたる掃蕩作戦の結果、

    賊軍10万人あまりを処刑しました」。

    3日間で10万人の処刑というだけでもすさまじいものだが、さらに常軌を逸しているのは、

    この殺戮が賊軍だけではなく、多くの民間人にも及んだことだ。


    曾国藩の死後、幕僚の一人であった

    趙烈文(ちょうれつぶん)は『能静居士日記』の中で、

    南京住民にたいする湘軍の虐殺を証言している

    「わが軍が金陵に入城して数日間、民間人の老弱した者、

    あるいは労役に使えない者たちは悉く斬殺され、街角のあちこちに屍骸が転がった。

    子供たちも斬殺の対象となり、多くの兵卒たちが子供殺しをまるで遊戯を楽しんでいるかのようにしまくった。

    婦女となると、40歳以下の者は兵卒たちの淫楽の道具となるが、

    40歳以上の者、あるいは顔があまりにも醜い者はほとんど、

    手当たり次第斬り捨てられてしまった」。こういう証言もある。


    湘軍と共に天京に攻め入ったある外国人の傭兵が、城内での目撃談を、

    英国の植民地だったインドで発行している新聞『インドタイムス』で語っている。

    「私は朝廷の部隊が太平天国軍の捕虜たちを殺戮する場面をこの目で見た。

    彼らは本当に軍の捕虜であるかどうかは定かではない。とにかく、


    普段は野菜売場である町の広場に、捕虜とされる数百人の人々が集められてきた。

    群れの中には男もいれば女もいる。老人もいれば子供もいるのだ。


    歩くにも無理な老婆、生まれたばかりの嬰児、懐妊している婦人の姿も見られる。

    朝廷の兵士たちはまず、若い女性たちを捕虜の群れの中から引きずり出した。


    彼女たちをその場で凌辱(りょうじょく)した後に、

    周りで見物している町の破落戸(ごろつき)たちの手に渡して輪姦させるのである。

    その間、兵卒たちはにやにや笑っているが、


    輪姦が一通り終わると、全裸にされた女たちの髪の毛を掴んで一太刀で斬り殺してしまうのだ。

    それからが男たちの殺される番である。彼らは全員、小さな刀で全身の肉を一片一片切り取られて殺される。

    何のためかはよく分からないが、心臓は、一つずつ胸の中から丁寧に抉り出されて、

    用意された容器に入れられるのである。次に、子供たちが母親の前で殺され、母親たちも同じ運命となる」。


    現在のところ、「天京屠城」で殺された住民たちの数は少なくとも10万人以上であるというのが

    歴史学上の定説となっている。これこそが、


    中国史上の本物の「南京大虐殺」なのである。


    中国では、人が人を食べるのが常態と化した。さすがに自分の子供を食べる親はいないから、

    親は、死んだり昏睡状態に陥った子供をよその家に持っていき、

    同じような状態のよその子と交換して自分の家に持ち帰り、その子を自宅で解体して食べたという。

    まさに、人類史上最大の人災と言えるだろう。大躍進政策の致命的な失敗により、

    さすがの毛沢東も責任を取らざるを得なくなり、




19594月27日、国家主席の地位を

  • 劉少奇に譲ることとなった。


    そこからの復讐・粛清が文化大革命なのである


    血で血を洗う抗争に次ぐ抗争という中国史の特徴を、

    より具体的に言えば、その特徴は、思想弾圧・大量殺戮・大粛清である。

    そして、現代中国・中華人民共和国ももちろんその性格を色濃く有している。

    毛沢東が行なった

    一村一焼一殺」と
    文化大革命は、

    数々の戦慄するようなおぞましい行為。


************************************
毛沢東は、

1928から、湖南省・江西省・福建省・浙江省の各地に革命根拠地を拡大していくが、

  • その時の行動方針が「一村一焼一殺、外加全没収」であった。

    意味は「一つの村では、一人の土豪を殺し、一軒の家を焼き払い、加えて財産を全部没収する」である。


*************************************
1928から
1933までの5年間で、

  • 一村一焼一殺」で殺された地主の総数は、10万人に及んだという。


    中国共産党が政権を取ると

    「一村一焼一殺」は中国全土に徹底して行なわれることとなった

    全土で吊るし上げにあった地主は六百数十万人。うち二百万人程度が銃殺された。


    共産革命はどこの国においても大量殺戮と略奪を伴う惨たらしいものであるが

    毛沢東の行動を知っていくと中国史の伝統の焼き直しにも見える。

    次は粛清である。現代中国の粛清と言うと、先に述べた文化大革命が思い起こされるだろうが、

    実際には中国共産党が勢力を拡大して行く途上においても、

    数々のすさまじい粛清が行なわれている。まず、


*************************************
1930から翌31年にかけての「AB団粛清事件」。

  • これは中国共産党史上、初めての大量内部粛清であるが、この時は7万人以上を処刑している。

    政権を奪って権力を握ると、国家レベルで大粛清が行なわれることになった。


*************************************
1951年、「反革命分子鎮圧運動」である。

  • 毛沢東は「農村地帯で殺すべき反革命分子は人口の千分の一程度とすべきだが、

    都会での比率は人口の千分の一を超えなければならない」という殺人ノルマを課し、

    中国全土を反革命分子狩りの嵐が吹き荒れた。告発、即時逮捕、即時人民裁判、即時銃殺である



◆中国共産党の公式資料◆

◆中国共産党執政四十年◆1949~1989)』によれば、

  • 「反革命分子鎮圧運動」で銃殺された人数は71万人に上るという

    (さらに129万人が「準革命分子」として逮捕され、終身監禁された)。粛清・虐殺はまだ終わらない。


*************************************

1955には

  • 「粛清反革命分子運動」によって8万人を処刑している。

    思想弾圧・粛清の流れは「反右派闘争」などこの後も続き、

    その流れの中に既に述べた文化大革命があるのであるが、文革のひどさはよく知られるところである、

    【Youtube】で映像を見る

    文革にもつながった「大躍進政策」について述べておこう。

    先に、文革は政権中枢から失脚していた


    毛沢東劉少奇からの

    政権奪還を目論んで起こした大規模な権力闘争であり大粛清であったが、

    毛沢東の一時的失脚をもたらしたのが大躍進政策であった。


*************************************

195711月6日、

  • ソ連共産党第一書記・フルシチョフは、

    ソ連が工業生産(鉄鋼・石油・セメント)および農業生産において15年以内にアメリカを追い越せるだろうと宣言した。



*************************************

対抗心を燃やす毛沢東は、

  • 1958の第二次五ヵ年計画において中国共産党指導部は、

    当時世界第2位の経済大国であったイギリスを15年で追い越す(のちには「3年」に減少)という壮大な計画を立案した。


    その中心に据えられた鉄鋼などは、

    生産量を1年間で27倍にするというあまりにも現実離れしたものであった。


    食糧も通常2.5億トンの年間生産高を一気に5億トンに引き上げることが決められた。

    しかし、何の裏付けもないまま目標だけ勇ましく掲げても、実現できるはずもない。



*************************************

1959

  • 共産党政治局委員で国防相の彭徳懐(ほうとくかい)が大躍進政策の再考を求めたが、

    毛沢東が受け入れるはずもなく、

    逆に「彭徳懐反党集団」として断罪され、失脚させられる。

    (彭徳懐は、後の文革で凄まじい暴行を受け半身不随に。その後、
    監禁病室で下血と血便にまみれた状態のまま放置され死に至る)。


    これ以降、同政策に対して誰もものを言えなくなり、

    ノルマを達成できなかった現場指導者たちは水増しした成果を報告した。

    当時、全国の人民公社は穀物の生産高に応じて、政府に食糧の無料供出を割り当てられていた。

    「倍増」と報告された生産高によって、飢饉であるにもかかわらず、

    農民たちは倍の食糧を供出しなければならなくなったのである。

    その結果はすさまじい餓死者である。その数は、

    わずか3年間で2000万人とも5000万人とも言われている(中国本土では発禁となった。


    『墓碑――中国六十年代大飢荒紀事実』によれば、人口損失は7600万人に上るとのぼるとされている)。

    最後は、人が人を食べるのが常態と化した。さすがに自分の子供を食べる親はいないから、


    親は、死んだり昏睡状態に陥った子供をよその家に持っていき、

    同じような状態のよその子と交換して自分の家に持ち帰り、その子を自宅で解体して食べたという。

    まさに、人類史上最大の人災と言えるだろう。大躍進政策の致命的な失敗により、


    さすがの毛沢東も責任を取らざるを得なくなり、

    1959年4月27日、国家主席の地位を

    劉少奇に譲ることとなった。

    そこからの復讐・粛清が文化大革命なのである。


*********************************************

中国民族の大量殺戮と粛清の歴史をさかのぼると

[中国史参照するといいですよ]

1644年~1912年 【清】(しん)

  • 城内の全ての人間を屠殺する

    清(正式には大清(だいしん))、は清朝ともいい、1616年に満洲において建国され、

    1644年から1912年まで中国とモンゴルを支配した最後の統一王朝である。

    首都は盛京(瀋陽)、後に北京に置かれた。

    満洲族の愛新覚羅氏(アイシンギョロ氏)が建てた征服王朝

    最後の征服王朝1644年に都を北京に移した清は、


    中国南部に残っている明朝の残党狩りのために征服戦争に打って出る。

    これがすさまじい。「屠城(とじょう)」と言って、

    「城内の全ての人間を屠殺する」のである。こう言うと、

    屠城とは街中の市民全員を殺すことなのである。
       
    清の征服軍が行なった屠城で有名なものの一つは

    1644年の「揚州屠城」であるが、当時揚州は既に

    人口100万人の大都市であった。その都市で大虐殺が実行された。

    かろうじて生き残った王秀楚という人物が、『揚州十日記』という記録を残している。

    「数十名の女たちは牛か羊のように駆り立てられて、少しでも進まぬとただちに殴られ、あるいはその場で斬殺された。

    道路のあちこちに幼児が捨てられていた。

    子供たちの小さな体が馬の蹄に蹴飛ばされ、人の足に踏まれて、内臓は泥に塗れていた。

    途中の溝や池には屍骸がうず高く積み上げられ、手と足が重なり合っていた」。この記録によれば、

    屍骸の数は帳簿に記載されている分だけでも八十万人以上に達したという。


*********************************************
紀元前221年 - 紀元前206年 【秦】(しん)
  • 中国史の伝統――思想弾圧・大量殺戮・粛清

    征服王朝から、初めて中国を統一した秦。

    秦の始皇帝歴史に名高い中   国史を貫く特徴とは、思想弾圧、大量殺戮と粛清である。

    「焚書(ふんしょ)・坑儒(こうじゅ)」(書を燃やし、儒者を坑する(儒者を生き埋めにする))を行なった。

    秦の大量殺戮と内部粛清である。『史記』の『白起列伝』には、
    中国統一に至る過程でのすさまじい殺戮が記述されている。例えば、

    紀元前293年
    秦軍は韓と魏(ぎ)の連合軍を破るが、この時
    24万人を斬首している。その後も
    数万人レベルの斬首はざらで、
    最もすさまじかったのは紀元前260年の長平の戦いである。この時、

    秦軍は山西省高平県の長平で45万の大軍を擁した
    趙(ちょう)軍を降伏させる
    戦闘中で命を落としたのは5万人。残りの40万人は捕虜となったが、

    秦の白起将軍により
    40万人の捕虜ほぼ全員が生き埋めにされて処刑(坑殺)された

    紀元前210年

    始皇帝は巡幸中に死亡すると、粛清の嵐が始まる。
    宦官・趙高(ちょうこう)と
    宰相・李斯(りし)(始皇帝の身辺の世話をしていた)は、

    長男の扶蘇(ふそ)を自殺に追い込む(始皇帝から後継指名を受けていた)、次男の
    胡亥(こがい)を二世皇帝に据え、権力をほしいままにした。傀儡政権を樹立した後は、

    趙高李斯以外のグループの
    重臣を次々に殺戮。次いで

    胡亥の兄弟である12名の皇子を処刑し、10名の皇女を磔にした。ところが、次はさらなる内紛と粛清である。今度やられる方に回ったのは
    李斯であった。

    趙高は権力独占のために邪魔になった李斯を追い落とすため、謀反の罪をかけ、皇帝の名において逮捕させる。
    そして例によって一族皆殺しである。
    これを「族誅(ぞくちゅう)」と言うが、族誅は中国史の伝統である

    凄惨な粛清はさらに続く。
    趙高は、今度は二世皇帝・
    胡亥を自殺に追い込み、
    始皇帝の孫である
    子嬰(しえい)を3世皇帝に立てるが(紀元前207年)、
    既に自らの力も国の力も衰え切っており、今度は逆に
    趙高一族が
    子嬰によって誅殺されることになる。因果である。

    なお、

    子嬰が即位した翌年、紀元前206年には滅びてしまうのであるが、滅ぼしたのが有名な
    項羽劉邦である。この時、
    項羽がやったこともすさまじい。

    項羽は秦の首都・咸陽(かんよう)に向かう途中で造反の気配を見せた
    秦兵20万人を穴埋めにして殺している。また、

    子嬰が降伏して秦が滅亡した後、

    項羽
    子嬰一族や官吏4千人を皆殺しにし、咸陽の美女財宝を略奪して、さらに
    始皇帝の墓を暴いて宝物を持ち出している。そして

    殺戮と略奪の限りを尽くした後、都に火をかけ、咸陽を廃墟としたのである

*********************************************
紀元前206年 - 8年 
【漢】(前漢)を建国

【前漢】(ぜんかん)とする。


  • を滅亡させた紀元前221年 - 紀元前206年秦(しん)

    項羽 (こうう)と 劉邦(りゅう ほう)前漢の初代皇帝の時代の漢族は滅びた

    項羽劉邦であったが、その直後から対立は始まり、楚漢戦争が勃発。

    紀元前202年の垓下(がいか)の戦いで

    劉邦項羽をやぶり、

    劉邦も功労者に封土と王位を与えた。しかし、
    功労者は実力者であり、天下を取った後は目ざわりでしかない。

    楚(そ)王韓信梁(りょう)王彭越(ほうえつ)ら天下統一に最も貢献した者たちは、謀反の疑いをかけられ、

    一族皆殺し、族誅された。 しかも、
    梁王・彭越誅殺された後、塩漬けにされ、その肉は群臣に漏れなく配られた。

    「こういう目に遭うぞ」という恐怖政治の極みである

    劉邦は紀元前195年に亡くなるが、
    その時には王位についているのは、ほとんど劉氏一族の者ばかりとなっていた。

    高祖・劉邦が没して
    劉盈(恵帝)が即位すると、
    劉邦の妻・呂后(りょごう)は皇太后としてその後見にあたる。この呂后がまたすさまじい。まず、
    恵帝の有力なライバルであった
    高祖・劉邦の庶子である趙(ちょう)王
    如意(にょい)とその生母・
    (せき)夫人を殺害した。この時の

    呂后の殺害の仕方は、猟奇的などという次元をはるかに超えている。
    呂后夫人を奴隷とし、

    趙王如意(チョウ オウ ニョイ)殺害後には、
    夫人の両手両足を切り落とし、
    目玉をくりぬき、薬で耳・声をつぶし、その上でまだ生きたまま便所に投げ入れて人彘(人豚)と呼ばせたという。

    呂后は我が子である
    劉盈(恵帝)以外のほとんどの
    劉邦の息子を殺し、呂氏一族を要職に付け専横を欲しいままにする。
    しかし、これまた因果は巡るで、

    呂后の死後、逆に
    呂氏一族は族誅(ぞくちゅう)される側に回り、皆殺しされるのである。


*********************************************

【漢】はこの後、

  • 血気盛んに領土を拡大した武帝の時代などを経て、約200年でその時代を終える。

    帝室の外戚である王莽(おうもう)が、事実上国を乗っ取り、


紀元8年【新】という王朝を建てる。しかし、この
  • 【新】」王朝は、

    紀元17年に始まった反乱の全国的な拡大により、わずか15年でその幕を閉じる。

    戦乱と飢餓による人口の激減というのはどの国においてもあったことだが、
    とりわけ中国においては甚だしい。

    37年に劉秀(後漢の光武帝)による天下統一で誕生した。


*********************************************

【後漢】であるが、長くは続かなかった。
184年
  • に黄巾の乱、五斗米道の乱と相次いで宗教秘密結社による反乱が起こり、
    それがきっかけとなって各地に群雄が乱立する天下大乱の時代に突入する。

    『三国志』の時代の到来である。『三国志』の時代と言うと、血沸き肉踊るイメージがあるかもしれないが、
    現実には戦乱が打ち続く歴史上稀に見る悲惨な時代であった。

    黄巾の乱後、正史の記録には、
    「白骨山のように積み」「人は共喰」「千里に人煙を見ず」といった記述が多い。

   
【後漢】
  • の時代、人口は5000万人を超えるところまで増えた。
    それが戦乱の三国時代にどこまで減ったのか。
    なんと約十分の一になったと言われてる。事実上、それまでの
    【漢族】は滅びたと言ってよい。


*********************************************

220年-280年 【三国時代】(さんごくじだい)

  • なお、『三国志』とは、(ぎ)・(ご)・(しょく)の三国が争った三国時代の歴史を述べた歴史書

    三国時代という内戦時代の後、一時的に


【晋】
  • が中国を統一するがわずか20年で瓦解し、再び戦乱と分裂の時代に突入する。
    五胡十六国時代」である。

    【五胡】とは、

    【匈奴】(きょうど)・【鮮卑】(せんぴ)・【羯】(けつ)・【氐】(てい)・【羌】(きょう)の五民族を意味し、
    十六国とは北魏末期の史官・崔鴻が私撰した『十六国春秋』に基づく表現で、

    実際の国の数は16を超えた。要するに、従来の漢族が内戦により自滅的に激減した状況下で、
    様々な民族が中国の中に入り乱れ、小国を建てる時代が到来したのである。


「五胡十六国時代」は
304年から439年まで続き、

439年
  • に至って従来の中華である中原から現在の北京を含む華北一帯を北魏(ほくぎ)が統一する。では、
    この北魏を打ち立てた民族は何だったのか。
       
    先の五胡の中の鮮卑。鮮卑とは北方の遊牧民である。
    それに対して、わずかに生き残った従来の漢族は南に逃れて王朝を建てた。
    そのためこの時代を中国における


「南北朝時代」439年~589年と呼ぶ。

  • 南北朝時代に終止符を打ったのは

    隋による中国統一であるが、この隋も鮮卑による王朝であった。

    「五胡十六国時代」から隋の時代にかけて、中国語は大きく変質した。

    鮮卑(中国北部に存在した遊牧騎馬民族)は文字を持たなかったため、

    話していた言語がテュルク系であったかモンゴル系であったか、正確には分からない。

    ただ、アルタイ系言語(北東アジア・中央アジアから東欧にかけての広い範囲で話されている諸言語)で

    あったことはほぼ間違いない。



  • の天下統一の直後、601年に鮮卑人の陸法言という人物が、

    『切韻』という字典を編纂する。これは漢字を発音別に分類し、

    漢字の発音の標準を定めようとしたものであるが、そこにはアルタイ系発音の特徴が随所に見られる。このことからも、

    この時代の中国人は、すでに始皇帝劉邦の時代、秦・漢時代の中国人の子孫ではなかったことが分かる。

    なお、五胡十六国の諸国や北朝、あるいは隋・唐は、

    既に述べたなどと同じく異民族王朝であるが、

    明確な征服行為を欠くため「征服王朝」とは呼ばれず「浸透王朝」という用語で定義される。

*********************************************

1368年 - 1644年 【明】(みん)の

  • 太祖・洪武帝によるすさまじい粛清

    中国史とは抗争と断絶の歴史であることを、

    「征服王朝」「浸透王朝」その最後は、狂気の弾圧と粛清である

    文化大革命(1966年に発動し、1976年)による破壊から一転しての国家主導による拝金主義であった。

    既に述べてきたように、秦に始まり、漢の劉邦や呂后、明の洪武帝、


    太平天国(清朝の中国で、1851年に起こった大規模な反乱)の

    洪秀全、そして
    毛沢東続くすさまじい粛清というのも、中国史の伝統と言えるだろう


*********************************************

20世紀を迎えた。

  • そこで最大の試練を迎える。共産主義国家・中華人民共和国の誕生。

    そして、さらに壊滅的打撃を与えたのが文化大革命である。

    「宗教はアヘン」という中国共産党が政権を奪ってから、政府は寺を壊し経典を燃やし、

    僧侶や尼を強制的に還俗させたほか、他の宗教施設の破壊もずっと止めなかった。


1960年
  • には、既に中国の宗教施設は壊滅的状況であった。

    宗教の自由を求める人達は、台湾や、英国統治下の香港に脱出して行ったので、

    中国仏教の伝統は、大陸よりも、台湾や、香港で維持されてきたと言える。

    そして文化大革命である。

    念のため、文化大革命について簡単に説明しておこう。正式にはプロレタリア文化大革命。略称「文革」。


中華人民共和国
1966年から1977年
  • まで続いた「封建的文化、資本主義文化を批判し、

    新しく社会主義文化を創生しよう」という名目で行われた改革運動である。しかし、

    その内実は、政権中枢から失脚していた
    毛沢東が、
    劉少奇からの政権奪還を目的とした大規模な権力闘争であり、

    死者は一千万人を超え、リンチを受けたり冤罪で投獄されたりといった被害者は
    一億人
    に及んだと言われる、

    世界史上でも例のないおぞましい大粛清であった。



b_simple_51_2M.jpg



http://www.saisei21.jp/report/2012/report-1日本再生レポートより一部お借りいたしました。
参考文献
『中華帝国の興亡』(黄文雄著・PHP研究所)
『読む年表 中国の歴史』(岡田英弘著・WAC)
『中国文明の歴史』(岡田英弘著・講談社現代新書)
『中国大虐殺史』(石平著・ビジネス社)
『200年企業』(日本経済新聞社著, 編集・日経ビジネス人文庫)
『百年続く企業の条件』(帝国データバンク 史料館・産業調査部 編・朝日新書)
『情報亡国の危機 』(中西輝政著・東洋経済新報社)
『毛沢東 大躍進秘録』(楊継縄著・文藝春秋)
新興国情報EMeye
Bloomberg
中央日報
サーチナニュース
大紀元時報
Wikipedia

最後までお読みいただきましてありがとうございます。転載などご自由にお使いください。
b_simple_51_2M.jpg
<拡散希望>


Post comment

管理者にだけ表示を許可する