【政治を読む】TVメディアは政治を歪め国民に信じ込ませてきた

”悪が栄えるのは、善人が何もしないからだ”  日本を洗脳するTBS社長は「安倍を辞めさせる為なら何でもやれ!」⇒加計学園⇒「テレビは洗脳装置。嘘でも放送しちゃえばそれが真実」「社会を支配しているのはテレビ。これからは私が日本を支配するわけです」「日本人はバカばかりだから、我々が指導監督してやっとわかる」「国民は我々の情報によって動かされる人間だ」「日本は選ばれた人間である我々によって白にも黒にもなる」 蓮舫関連記事「日本人はどれほど騙しやすいか第二次大戦、中国の粛清略奪の歴史に習って、今後も我らが日本を粛清略奪すると指摘する」と記述。

◆『「大東亜」戦争に至るまで柳条湖事件、満洲事変- 日中戦争(支那事変)◇チベットが中国の侵略を受けた1950年 侵略国家中国による世界人類破戒 世界の平和を破壊する中国

09 2017

世界の平和を破壊する中国
中国による世界人類破戒、それを証明するDNA


漢人の異常猟奇性中国南北朝鮮人(閲覧注意)

【日本への中国の侵略は既に進行している】
中国の沖縄に対するアプローチは、東チベットで行ったことと非常に似ています。

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1894年 - 甲午農民戦争
1894年~1895年 - 日清戦争は、
1894年(明治27年)7月(光緒20年6月)から1895年(明治28年)3月(光緒21年2月)にかけて行われた

  • 主に朝鮮半島(李氏朝鮮)をめぐる日本と大清国の戦争である

    前者がイギリス帝国に接近し、治外法権を撤廃させる実質的な外交材料となった。
    日清講和条約を結ばせた日本は戦勝国であったが、多くの兵を病死させている。

    また、利率の高い国内軍事公債も戦後に借り替えた。
    条約により台湾を譲り受けた日本は、台湾総督府や台湾製糖を設置した。
    さらに大日本製糖も台湾に進出した。


1894年(明治27年、光緒20年)、

  • 朝鮮国内の甲午農民戦争をきっかけに6月(5月)朝鮮に出兵した日清両国が
    8月1日(7月1日)宣戦布告にいたった。
    日清戦争の原因について開戦を主導した外務大臣陸奥宗光は、

    「元来日本国の宣言するところにては、今回の戦争はその意全く
    朝鮮をして独立国たらしめんにあり」と回想した(『蹇蹇録』岩波文庫p277)。

    三谷博・並木頼寿・月脚達彦編集の『大人のための近現代史』(東京大学出版会、2009年)の言い方では、
    朝鮮は「それ以前の近世における国際秩序においては中国の属国として存在していた。

    それに対して近代的な国際関係に入った日本国は、
    朝鮮を中国から切り離そう、独立させようといたします。
    いわば朝鮮という国の国際的な地位をめぐる争いであったということ」となる。

    近代化された日本軍は、近代軍としての体をなしていなかった清軍に対し、
    終始優勢に戦局を進め、朝鮮半島および遼東半島などを占領した。

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    また戦争指導のため、明治天皇と大本営が広島に移り、臨時第七議会もそこで召集された。


1902年

  • 日英同盟の締結を期に、ロシアは満洲から撤兵を開始するが、日本を軽視し全兵力の撤兵は行わなかった。

    日本では対ロ強硬論が噴出し、また韓国、満洲の利益に関する日露外交交渉は決裂、


    満洲事変までの経緯

    条約無効問題と国権回復運動

    1902年
    • 中国は清朝時代の英清通商航海条約改正交渉より、

      領事裁判権の撤廃や関税自主権の回復など国権の回復に着手しており、


    中国人の卑劣性と絶えない争いのDNAを持つ、
    悍ましい食人文化、韓国人の食犬猫文化


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    南満洲鉄道と関東都督府

    1902年

    • 日英同盟の締結を期に、ロシアは満洲から撤兵を開始するが、日本を軽視し全兵力の撤兵は行わなかった

      日本では対ロ強硬論が噴出し、また韓国、満洲の利益に関する

      日露外交交渉は決裂


1904年~1905年 - 日露戦争
1904年には日露戦争が勃発し両国はアメリカ合衆国の仲介の下で終戦交渉に臨み、

1904年(明治37年)2月8日 - 1905年(明治38年)9月5日)は、

  • 大日本帝国とロシア帝国との間で朝鮮半島とロシア主権下の満洲南部と、
    日本海を主戦場として発生した戦争である。


1905年9月5日に
  • 締結されたポーツマス条約により講和した。


1905年

  • この戦争に勝利した日本はロシアとの間にポーツマス条約を締結した。

    これにより、日本は、東清鉄道の内、旅順-長春間の南満洲支線と、

    付属地の炭鉱の租借権、関東洲の租借権などを獲得した。

    この規定に基づいて、12月、日清間でロシア権益の継承に加えて併行する

    鉄道新設の禁止などを定めた満洲善後条約が締結され、

    鉄道守備隊はのちに関東軍となった。一方で、日本は、


1905年10月、

  • 満洲軍総司令官下に関東総督府を設置し軍政を敷いた

    これに清が抗議し、日本の門戸閉鎖に英米が反発し、



1906年3月に

  • 満洲の門戸開放を迫ったため、日本は満洲開放の方針を確認し、

    同年7月31日の勅令196号をもって、関東総督府が関東都督府として改組された。


1906年6月7日の

  • 勅令第142号をもって


1906年11月26日に

  • 南満洲鉄道が設立された。

    以降、南満洲鉄道を柱とする満洲経営権益は日本の重大な課題となった

    辛亥革命にはじまる中国革命と南満洲鉄道にかかわる年譜を下に示す。

    第一次革命(1911年(明治44年、宣統2年)10月)


1911年5月、鉄道国有化問題惹起

1912年1月1日、南京に臨時政府確立

1913年(大正2年、民国2年)7月
第二次革命の失敗により、

同年10月に袁世凱が正式な中華民国大総統に就任。陸海軍大元帥を兼ねる

1916年(大正5年、民国5年)1月 第三次革命

同年6月、袁世凱の死亡により黎元洪が大総統に就任、南方諸省は独立を取り消す


1916年(大正5年、民国5年)

  • 満洲宗社党問題

    満洲では、趙爾巽、(清末民初の政治家)張作霖は革命に反対だったが、には抗えず、袁と妥協するに至った。

    袁世凱の帝政の反動により、清復辟を目的とする宗社党は、

    吉林将軍孟恩遠(清末民初の軍人)と謀り満洲に騒乱を起こすため、張作霖爆殺を試みたが失敗。

    蒙古人巴布札布(パブチャブ)は宗社党の首領として蒙古兵を率いて南下。

    南満線郭家店に出て、満鉄線を挟んで奉天派と対陣するが、

    日本の抗議で休戦し蒙古へ引き揚げる。その後巴布札布の死により蒙古軍は四散する。

    南北政権の対立(1917年(大正6年、民国6年))の死後、段祺瑞は段祺瑞内閣を組織するが、

    約法旧国会回復を無視したため、広東非常国会及び同軍政府はそれを非難して北京政府に対抗し、

    南北政府の対立が起こった。



1918年(大正7年)3月、

  • 段祺瑞内閣(だん きずい)が再現した際には、長江奥地まで南征軍を進めた。



1919年7月
  • 中華民国蒋介石派はカラハン宣言以降、

    急速に共産主義勢力に接近し、国家継承における条約継承否定説を採用し

    日本との過去の条約(日清間の諸条約)の無効を主張しはじめた。



1920年8月、

  • 安直戦争の際には直隷派(ちょくれいは)を支援して勝利するが間もなく直隷派と対立。


1922年

  • 第一次奉直戦争を起こして敗北すると、張は東三省の独立を宣言し、日本との関係改善を声明した

    鉄道建設、産業奨励、朝鮮人の安住、土地商祖などの諸問題解決にも努力する姿勢を示したが、

    次の戦争に備えるための方便にすぎなかった

    第一次国共合作(1924年)当時の諸外国の支援方針は、主に次の通りであった。
    奉天軍(張作霖) ← 日本
    直隷派 ← 欧米
    中国国民党 ← ソ連(実質は党内の共産党員への支持)


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北伐

1922年(大正11年、民国11年)

  • 第一次北伐北京政府内で直隷派の呉佩孚、安薇派の段祺瑞を圧し、武力統一政策を執った。

    一方、南方広東政府は内部安定と広西占領の余勢を駆って北伐を決し、

    同年に孫文を陣頭に立て北伐を行おうとしたが、南軍陳炯明の反旗で失敗

    第二次北伐国民党はソビエト連邦と提携し共産党合流を容認、



四ヶ国共同管理案

1922年

  • 日英米仏の四国公使が中華民国政府に対し財政整理勧告を出した。



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1923年(民国12年)

  • 陳炯明を破り、広東に更生した蒋介石をもって奉直戦争を行い、

    この機に第二次北伐を行なったが馮玉祥の寝返りで頓挫し




1923年

  • 鉄道において臨城事件が起こり、多数の英米人が被害を受けたため、

    英米を中心に列強による鉄道警備管理共同案が議論された。

    また、中華民国の内政全ての共同管理案も議論されていた。

    この列強による共同管理案は、中華民国広東政府をソ連へと近づけさせ第一次国共合作を始めさせたり、

    直隷派の北京政府にカラハン協定及び中蘇解決懸案大綱協定(中国語版)を結ばさせる原動力となってしまった。

    中ソ紛争敗北後、真偽不明ではあるが、

    白系ロシア人である奉天キリル派代表のペトゥホーフが

    「支那側に交渉中なるが、最近南京政府に於ては赤露勢力を北満より一掃し併て

    今後東鉄に関する絲●を除去する為め日英米仏四ヶ国の国際共同管理を認めんとの意向を

    有する向ある」と話していたとされる。


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1924年(大正13年)の

  • 第二次奉直戦争では、馮玉祥(ふう ぎょくしょう)は
    中華民国の軍人の寝返りで大勝し、翌年、張の勢力範囲は長江にまで及んだ。


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1925年11月22日、

  • 最も信頼していた部下の郭松齢(かく しょうれい)は、清末民初の軍人 中華人民共和国。が叛旗を翻しは窮地に陥った。

    関東軍の支援で虎口を脱することができたが、約束した商租権の解決は果たされなかった。

    の叛乱は馮玉祥の教唆によるもので、馮の背後にはソ連がいたため、張作霖呉佩孚と連合し、

    「赤賊討伐令」を発して馮玉祥の西北国民軍を追い落とした。



1925年(民国14年)3月に

  • 孫文は北京に入り死去した。第二次北伐は失敗に終わる。



1925年(大正14年、民国14年)11月)

張郭戦争

張作霖

  • 第二次奉直戦争後、

    關内に進出し直隷、山東、安薇、江蘇の中央書証を手中に収め、中央政権の掌握をしようとした。

    福、浙の孫伝芳討張の兵を挙げ、江蘇の楊宇霆、呉佩孚は漢口で立ち奉天派と提携、

    国民軍奉天派に呼応し、奉天派の重鎮郭松齢は張作霖と対峙した。

    この戦いにより満洲は兵乱の巷となり、日本は在留邦人保護のため増兵した

    この結果、張作霖に有利な戦いとなり、12月にを葬り、辛うじて満洲王国の崩壊を免れた。



*日本によって満洲王国の崩壊は免れる
中国人の卑劣性と絶えない争いのDNAを持つ、
悍ましい食人文化の中国人はことごとく日本を裏切る。

日本人よ目を覚ませ!


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1926年国民党の北伐で直隷派が壊滅した後、

  • 張作霖は中国に権益を持つ

    欧米(イギリス、フランス、ドイツ、アメリカなど)の支援を得るため、

    日本から欧米寄りの姿勢に転換

    権益を拡大したい欧米、特に大陸進出に出遅れていた米国が積極的に張作霖を支援

    同時期、国民党内でも欧米による支援を狙っていたが、




1926年12月、

  • ライバル達が続々と倒れていったため、

    これを好機と見た張作霖は奉天派と呼ばれる配下の部隊を率いて北京に入城し大元帥への就任を宣言、

    「自らが中華民国の主権者となる」と発表した。

    大元帥就任後の張作霖は、 更に反共・反日的な欧米勢力寄りの政策を展開する。

    張作霖は欧米資本を引き込んで南満洲鉄道に対抗する鉄道路線網を構築しようと、

    南満洲鉄道と関東軍の権益を損なう事になった。この当時の支援方針は次の通りである。

    奉天軍(張作霖) ← 欧米・日本
    国民党
    中国共産党 ← ソ連

    満洲における張作霖の声望は低下し民心は離反した。

    「今日のごとき軍閥の苛政にはとうてい堪えることはできない。

    ……この不平は至るところに満ちており、この傾向は郭松齢事件以後、

    今日ではさらに濃厚になっている」と奉天東北大学教授らは述べている。

    奉天政府の財政は破綻の危機に瀕しており、


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1926年

  • 歳出に占める軍事費の比率は97%で、収支は赤字であった。

    政権は不換紙幣を濫発し




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1927年4月には

  • 北京のソビエト連邦大使館を襲撃し中華民国とソ連の国交は断絶。


    1927年4月

    • 独自に上海を解放した労働者の動向を憂慮した

      蒋介石が中国共産党員とその同調者の一部労働者を粛清し、

      国共合作が崩壊。北伐の継続は不可能となったが、この粛清以降、

      蒋介石は欧米勢力との連合に成功した。



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1928年、以下のような記事が新聞発表された。

  • 電報 昭和3年6月1日

    参謀長宛 「ソ」連邦大使館付武官第47号

    5月26日「チコリス」軍事新聞「クラスヌイオイン」は24日上海電として左の記事を掲載せり

    張作霖は楊宇廷に次の条件に依り日本と密約の締結すべきを命ぜり

    一.北京政府は日本に対し山東半島の99年の租借を許し
    二.その代償として日本は張に五千万弗の借款を締結し
    三.尚日本は満洲に於ける鉄道の施設権の占有を受く



奉天票問題及び現大洋票


1928年7月19日には

  • とくに第二次北伐に着手中の日清通商航海条約の破毀を一方的に宣言し、

    これに対して日本政府はその宣言の無効を主張した


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1929年6月に現大洋票への幣制改革が行われた。


  • また
    1915年

    いわゆる対華21カ条要求をめぐる外交交渉のさい対日制裁として発布された

    懲弁国賊条例はこの交渉で締約した2条約13公文に完全に違背する条例であったが、

    1917年には邦貨100円に対し奉天紙幣110元だったのが、1925年には490元、1927年には4300元に暴落した。

    1918年1月4日以降、

    奉天票は不換紙幣であったため、度々暴落を起こしており、

    この問題が奉天票問題と呼ばれていた。



1929年に強化され

  • 「土地盗売厳禁条例」「商租禁止令」などおよそ59の追加法令となり、

    日本人に対する土地・家屋の商租禁止と従前に貸借している土地・家屋の回収が図られた。

    間島や満洲各地の朝鮮系を中心とした日本人居住者は立ち退きを強要されあるいは迫害された。

    このことは満洲事変の大きな要因となる。



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東三省政府の財政・国軍の中央への統合問題

  • 張作霖爆殺事件(ちょうさくりんばくさつじけん)は、

    在中全権大使を務めたアメリカの外交官・ジョン・ヴァン・アントワープ・マクマリーの覚書によると、

    郭松齢の反乱以降、

    張学良が父張作霖との関係がうまくいっていなかったこと、

    日本と張作霖の関係は完全に満足のゆくものではなかったが、

    どうしようもない状態ではなかったことから、

    日本人が張作霖を爆殺したという説は理解できないとしている


    瀧澤一郎も同様に日本側は張作霖を重視しており、

    殺害するメリットはなく、デメリットしかないことが明らかで、

    日本側が犯行を犯したという言説に疑問を呈している。また、


    加藤康男は『謎解き「張作霖爆殺事件」』で、「ソ連特務機関犯行説」とともに

    張学良犯行説」に言及している。


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1928年(昭和3年、民国17年)6月4日、
  • 中華民国・奉天(現瀋陽市)近郊で、

    日本の関東軍によって奉天軍閥の指導者張作霖が暗殺された事件。別名「奉天事件。

    中華民国や中華人民共和国では、事件現場の地名を採って、「皇姑屯事件」とも言う。

    終戦まで事件の犯人が公表されず、日本政府内では「満洲某重大事件」と呼ばれていた。

    馬賊出身の張作霖は、日露戦争で協力したため日本の庇護を受け、

    日本の関東軍による支援の下、段芝貴を失脚させて満洲での実効支配を確立、有力な軍閥指導者になっていた。


    張作霖は日本の満洲保全の意向に反して、

    中国本土への進出の野望を逞しくし、


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1928年4月、蒋介石(中華民国中国国民党初代中華民国総統)、

  • 1949年に、中国大陸における国共内戦で
    毛沢東率いる中国人民解放軍にに破れ台湾に撤退。
    これが台湾の主権を主張する中華人民共和国中国)と中華民国台湾)間の「両岸問題」)

    は欧米の支援を得て、再度の北伐をおこなう。 この当時の支援方針は次のような構図に変化していた。

    奉天軍(張作霖)
    国民党 ← 欧米
    共産党 ← ソ連

    当時の中華民国では民族意識が高揚し、反日暴動が多発した。

    蒋介石から「山海関以東(満洲)には侵攻しない」との言質を取ると、

    国民党寄りの動きもみせ、関東軍の意向にも従わなくなった張作霖の存在は邪魔になってきた。

    また関東軍首脳は、この様な中国情勢の混乱に乗じて

    「居留民保護」の名目で軍を派遣し、両軍を武装解除して満洲を支配下に置く計画を立てていた。

    しかし満州鉄道(満鉄)沿線外へ兵を進めるのに必要な勅命が下りず、この計画は中止された。



1928年、以下のような記事が新聞発表された。
  • 電報 昭和3年6月1日
    参謀長宛 「ソ」連邦大使館付武官
    第47号

    5月26日「チコリス」軍事新聞「クラスヌイオイン」は24日上海電として左の記事を掲載せり
    張作霖は楊宇霆に次の条件に依り日本と密約締の結すべきを命ぜり

    一.北京政府は日本に対し山東本島の99年の租借を許し
    二.その代償として日本は張に五千万弗の借款を締結し
    三.尚日本は満洲に於ける鉄道の施設権の占有を受く




1928年6月4日、

  • 国民党軍との戦争に敗れた張作霖は、北京を脱出し、

    本拠地である奉天(瀋陽)へ列車で移動する。この時、日本側の対応として意見が分かれる。

    田中義一首相

    陸軍少佐時代から張作霖を見知っており、

    張作霖には利用価値があるので、東三省に戻して再起させる」という方針を打ち出す。


関東軍
軍閥を通した間接統治には限界があるとして、

社会インフラを整備した上で傀儡政権による間接統治(満洲国建国)を画策していた。

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列車爆破

張作霖が乗車していた列車

1928年(昭和3年)6月4日の早朝、
  • 蒋介石の率いる北伐軍との決戦を断念して満洲へ引き上げる途上にいた張作霖の乗る特別列車が、

    奉天(瀋陽)近郊、皇姑屯(こうことん)の京奉線(けいほうせん)と満鉄連長線の立体交差地点を時速10 km程で通過中、

    上方を通る満鉄線の橋脚に仕掛けられていた黄色火薬300キロが爆発した。

    列車は大破炎上し、交差していた鉄橋も崩落した。

    奉天城内の統帥府にかつぎこまれたときには絶命していたが、関東軍に新政府を作らせまいと6月21日に発表した

    また警備、側近ら17名が死亡した。

    同列車には張作霖の元に

    日本から派遣された軍事顧問の儀我誠也少佐も

    同乗していたがかすり傷程度で難を逃れた。

    事件直後に張作霖配下の荒木五郎奉天警備司令に激怒した話が伝わっている。

    張作霖の私的軍事顧問で予備役大佐の町野武馬は張作霖に要請されて同道したが、天津で下車した。また、

    山東省督軍の張宗昌将軍も天津で下車した。常蔭槐は先行列車に乗り換えた。


    車両に乗車していた奉天軍側警備と線路を守っていた奉天軍兵士は

    爆発の直後やたらと発砲し始めたが日本人将校の指示によって落ち着き、射撃を中止した。

    同乗していた儀我が事件直後に語ったところによると、列車は全部で20輌であり、

    張作霖の乗っていたのは8輌目であったが、

    爆破によりその前側車輌が大破し、先頭方の6輌は200メートル程走行して転覆し、列車の後半は火災を起こした。

    8輌目では張作霖の隣に呉俊陞、その次に儀我が座って会談していたが、

    呉がと儀我に寒いからと勧めるのでは外套を着ようと立った瞬間に大爆音と同時にはね上げられ、

    爆発物が頭上から降ってくるために儀我は直ちに列車から飛び降り、

    は鼻柱と他にも軽症を負い護衛の兵に助けられて降りた。

    近くに日本の国旗を立てている小屋があるので儀我は張にそこで休むことを勧めたが、

    この時には「何、大丈夫だ」と答えていた。やがて奉天軍憲兵司令が馬で到着し、現場は憲兵で警護され、

    自動車が到着すると張は自動車でその場を離れ、大師府に入った。



    事後調査

    • ここにおいてか少しでも理屈ある時に

      一大痛棒を喰わせて根本的に彼らの対日観念を変革せしむる要あり」とあり、また、

      奉天特務機関長秦真次少将と張作霖首席軍事顧問土肥原賢二中佐が、

      張作霖親衛隊長黄慕(荒木五郎)に

      謀反を起こさせようとした

      謀略を阻止したことが書かれており

      「もし土肥原なんかのすることを放任していたら、陸軍はもう世間に顔出しならぬこととなっていよう」とあり、


      張作霖の一人や二人ぐらい、野垂れ死にしても差し支えないじゃないか。

      今度という今度は是非やるよ」



      必ずしも張作霖殺害を意味しない、という説もある。


      斉藤恒関東軍参謀長は「張作霖列車爆破事件に関する所見」で、
      爆源は橋脚上部か列車内にあったのではないかと報告している。また、

      列車が現場に近づくや時速10キロ程度にスピードを落としたのはなぜか、と疑問を投げかけている。

      そして、列車内より橋脚上部の爆薬を爆破させようとしたら、
      列車内に小爆薬を装置し、
      これを爆破して逓伝爆破によって行えば容易なり、と述べている。さらに、

      橋脚壁は黒の煤煙で覆われ、黄色粉末を見ず、使用爆薬は黒色または「ヂナミット」である、としている。

      内田五郎領事の報告書では、爆薬は、展望車後方部か食堂車前部の車内上部か、

      または橋脚鉄桁と石崖との間の空隙個所に装置されたものと認められる、とされている。

      さらに、松村謙三は、爆破の状況をみるに、上のガードの下に火薬を装充して爆破したものらしい、と述べている。

      しかし、河本大作は線路脇の土嚢の土を火薬にすりかえたと証言しており、

      秦郁彦は、線路脇の資材置場に積んであった土嚢と黄色火薬詰めの麻袋と差し替えたとしており、

      満鉄線陸橋から奉天側へ数メートルほど離れた地点としている。

      また、松本清張は、満鉄路線脇の歩哨のトーチカに麻袋3個分の火薬がつめこまれたとしている。さらに、

      相良俊輔は、陸橋の橋脚から15メートル手前の線路際に積んであった土嚢の土をのぞき、火薬をつめたとしている。



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    ソ連特務機関犯行説

    • 張作霖爆殺事件は、ロシアの歴史作家ドミトリー・プロホロフにより、
      スターリンの命令にもとづいてナウム・エイティンゴンが計画し、
      日本軍の仕業に見せかけたものだとする説も存在している。

      2005年に邦訳が出版された

      ユン・チアン『マオ 誰も知らなかった毛沢東』でも簡単に紹介され、

      プロホルフは産経新聞においても同様のことを語っている。



      その他

      在中全権大使を務めたアメリカの外交官・ジョン・ヴァン・アントワープ・マクマリーの覚書によると、

      郭松齢の反乱以降、張学良

      張作霖との関係がうまくいっていなかったこと、

      日本と張作霖の関係は完全に満足のゆくものではなかったが、

      どうしようもない状態ではなかったことから、


      日本人が張作霖を爆殺したという説は理解できないとしている。

      瀧澤一郎も同様に日本側は張作霖を重視しており、殺害するメリットはなく、デメリットしかないことが明らかで、

      日本側が犯行を犯したという言説に疑問を呈している。
      また、

      加藤康男は『謎解き
      張作霖爆殺事件」』で、「ソ連特務機関犯行説」とともに「張学良犯行説」に言及している。




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    張作霖爆殺事件」(ちょうさくりんばくさつ)と

    張学良(ちょう がくりょう)張作霖の長男の易幟(えきし)

    易幟(えきし)とは、
    易幟

    • 奉天軍閥を継いだ張作霖の息子・張学良
      国民政府と和解して日本と対抗する政策に転換。



    1928年(昭和3年)12月29日朝、奉天城内外に一斉に青天白日満地紅旗が掲げられた(易幟)。
    結果、日本は満洲への影響力を弱める結果となった。これが後の満洲事変の背景の1つとなる


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1928年6月4日に発生した

  • 張作霖爆殺事件の後、父・張作霖の後を継いだ奉天派の張学良が、

    北洋政府が使用していた五色旗から、蒋介石率いる国民政府の旗である青天白日満地紅旗に旗を換え、

    国民政府に降伏した事件のことを指す

    張学良は国民革命軍に停戦を宣言し、蒋介石の北伐に干渉しないことを表明した。


    満州の地に基盤を築いていた日本は張学良の動きに対して満足していなかった

    首相田中義一は林権助を派遣し、張学良に対し翻意を迫ったけれども、

    張学良は日本の要求を拒絶し、中国統一へと動き出した

    7月3日、蒋介石は北京に到着し、平和裏に中国統一を行うために派遣された奉天派の代表と会談した。

    蒋介石が満州を統合することをアメリカ合衆国は支持していた為、

    この会談の内容は中国における日米の勢力範囲の奪い合いを反映したものであった。

    アメリカ合衆国とイギリスの圧力により日本は外交的に孤立した。

    そして、12月29日蒋介石は、満州における全ての旗が換わったことを宣言し、

    満州に国民政府の支配権が及ぶことを受諾した。

    二日後、国民政府は、張学良を中国陸軍の司令官にすることを約束した。

    この易幟により、中国は、形式上、国民政府により統一されたのであった



張作霖爆殺事件の現場

  • 関東軍は、地元の親日派軍閥長である張作霖に軍事顧問団を送り、取り込みを図った。

    しかし、張作霖が排日運動の高まりや欧米からの支援をとりつけようと日本との距離を置き

    海外資本の提供をうけて、いわゆる満鉄の並行線を建設し始めると、両者の関係は悪化した。


1928年(昭和3年)6月4日、

  • 関東軍は張作霖が乗る列車を秘密裏に爆破し、殺害した(張作霖爆殺事件)。

    事件を首謀した河本大作大佐は、予備役に回される軽い処分とされた。

    田中義一内閣はこの事件処理をめぐり昭和天皇から不興を買ったことにより、

    翌年7月になって総辞職に追い込まれた。

    張作霖爆殺事件によって、日本は国際的な批判を浴びた。

    張作霖の後を継いだ息子の張学良は、

    蒋介石の南京国民政府への合流を決行(易幟)し、

    満洲の外交権と外交事務は南京政府外交部の管轄となった。

    また、東北政務委員会、東北交通委員会、国民外交協会が設置されて、

    日本に敵対的な行動を取るようになった

    ソ連追い出しに失敗した

    張学良は、

    1. 失権失地回復の矛先を南満の日本権益と日本人に向けてきた。

    2. 満鉄を経営的に自滅枯渇させるために、新しい鉄道路線などを建設し、

    3. 安価な輸送単価で南満洲鉄道と経営競争をしかけた。

    4. 満鉄は昭和5年11月以降毎日赤字続きに陥り、社員3000人の解雇、

    5. 全社員昇給一カ年停止、
    6. 家族手当、社宅料の半減、

    7. 新規事業の中止、枕木補修一カ年中止、
    8. 破損貨車3000輌の補修中止、

    9. 民間事業の補助、助成中止など支出削減を実施した。

      また、
      張学良は、

    10. 満鉄の付属地に柵をめぐらし、通行口には監視所を設けて、

    11. 大連から入ってきた商品には輸入税を支払っているにもかかわらず、付属地から持ち出す物品には税金をとった。

    12. さらに「盗売国土懲罰令」を制定し、

    13. 日本人や朝鮮人に土地を貸したり売ったりした者を、国土盗売者として処罰した。

    14. 多数の朝鮮人農民が土地を奪われ、抵抗した者は監獄に入れられた。

      満洲事変直後、奉天監獄には530人の朝鮮人が入れられていたという。

    15. そのうえ、林業、鉱業、商業などの日本人の企業は、日露戦争後の日清善後条約で、

      正当な許可をえたものは、満鉄付属地外でも営業できることになっていたが、

    16. 昭和5、6年には、一方的な許可取り消しや警察による事業妨害のために、経営不振が続出した。

      奉天総領事から遼寧省政府に交渉しても、外交権はないので南京政府の外交部に直接交渉するようにと相手にされなかった。

      外務省を通じて南京総領事が南京政府に交渉しても、いつまでたっても音沙汰なしであった。


    満洲事変前には、このような日中懸案が370件あまりあった

    危機感を抱いた関東軍は、再三に渡り交渉するが聞き入れられなかった。

    これにより関東軍の幹部は、本国に諮ることなく、満洲の地域自決・民族自決にもとづく分離独立を計画した。



白系ロシア人と中ソ紛争 満洲に侵攻するソビエト軍戦車

中東鉄道付属地に住んでいた白系ロシア人は、
1924年

  • 奉ソ協定後も中華民国東三省政府側によって擁護されていた。しかし、

    ソ連側は共産党員イワノフを中東鉄道管理局長として送り込み、


1925年には

  • 奉ソ協定で決められていた理事会の規定を無視して第九十四号命令など行い、白系ロシア人に圧力をかけていた。

    南京政府と合流した張学良は、南京政府の第一の外交方針である失権失地回復の矛先を、
    まず北満のソ連権益に向けた。


1929年(昭和4年)5月27日、張学良軍は共産党狩りと称して、
  • ソ連領事館の一斉手入れを実施し、
    ハルピン総領事と館員30人あまりを逮捕した。

    7月10日には、中東鉄道全線に軍隊を配置して、ソ連人の管理局長と高級職員全員を追い出して、
    中国国籍の人を任命した。

    ソ連は国交断絶を宣告して、ソ連軍が満洲に侵攻し(中東路事件)、
    中華民国軍を撃破して中東鉄道全部を占領した。

    12月22日にハバロフスク議定書が締結され、12月25日にはソ連軍は撤収を完了した。

    中東鉄道の経営と特別区の行政におけるソ連権益は回復され、北満洲における影響力を強めた。
    また、ソ連は鉄道警備隊まで撤退しており、

    満洲善後条約第2条に「若シ露國ニ於テ其ノ鐵道守備兵ノ撤退ヲ承諾スルカ或ハ
    淸露兩國間ニ別ニ適當ノ方法ヲ協定シタル時ハ日本國政府モ同樣ニ照辦スヘキコトヲ承諾ス」とあるので、

    関東軍の鉄道警備駐屯権の根拠が揺らいだ状態になった。
    ソ連はハバロフスク議定書に基づき、中国に対し白系ロシア人の追放を求めて圧力をかけていたため、
    それを恐れハルピンから上海へと移住する白系ロシア人が途絶えなかった。

    共産党暴動及び満洲ソビエト化の陰謀「反共主義歴史」および「万宝山事件」

    コミンテルンには一国一党の原則があり
    1929年ごろには更に重視されたとされる
    日本でも朝鮮共産党日本総局が解散して日本共産党に吸収されている


朝鮮共産党満洲総局は、中国共産党へ加わるために中国共産党の許可の下で、
1930年5月に

  • 間島で武装蜂起を行った (間島共産党暴動)。また、

    1930年8月1日には

    中国共産党満洲省委員会直属の撫順特別支部の朝鮮人によって満洲で八一吉敦暴動が発生した

    奉天省政府は取り締まりを強化したが、それに伴い兵匪や警匪による良民への横暴も増えてしまうこととなった。また、

    満洲における朝鮮人には共産思想に被れた者が多く居たため、中ソ紛争における捕虜の中にも多数の朝鮮人が存在していた。張学良が日本人や朝鮮人に土地を貸した者を処罰する法律を制定したため、各地で朝鮮人農民が迫害された。


1930年11月9日、

  • 関東州の撫順警察署が撫順炭坑において挙動不審な中国人の取調べを行ったところ、
    共産党に関する書類を多数所持しており、李得禄外二名を始めその他中国共産党員21名を検挙した。

    彼らによれば、12月11日の全国ソビエト代表大会前後に満洲省委員会は中央党部と呼応して大暴動を起こし、

    紅軍を組織して発電所や工場を破壊し、満洲に地方ソビエト政府を樹立することを計画していた


1931年6月15日には、

  • 上海租界の共同租界工部局警察(英語版)が

    ソ連スパイのイレール・ヌーラン(本名ヤコブ・ルドニック)を逮捕し(牛蘭事件、ヌーラン事件)、
    極東における赤化機関の全容や、政府要人の暗殺・湾港の破壊計画が明るみに出た。また、

    押収された文書には、
    国民政府の軍隊内に、共産党の細胞を植付け、其戦闘力を弱める事が最も必要」だと記されていた。
    22日には、中国共産党中央委員会総書記の向忠発が逮捕される。


1931年2月、

  • 「鮮人駆逐令」で朝鮮人は満洲から追放されることになり、
    行き場を失った朝鮮人農民は長春の西北の万宝山に入植しようとした。


1931年(昭和6年)7月2日に

  • 満洲内陸に位置する長春の北、三姓堡万宝山において土地を賃借した
    朝鮮人農民が作った用水路に反発した中国人農民が襲撃し、

    さらに日本の領事館警察官と衝突する万宝山事件が勃発した。
    この事件を中国側による不法行為であるとして、

    朝鮮半島では中国人排斥暴動が発生し(朝鮮排華事件)、多くの死者重軽傷者がでた。
    この事件により、日華両国関係が著しく悪化した。

    たまたま長春の近くで発生した事件では満洲青年連盟の長春支部長小沢開作の指導で厳重な抗議行動が
    展開され問題を重大化させたが、このような事件やさらに残虐な事件はざらにあったという。



中村大尉事件

1931年6月27日、

  • 大興安嶺の立入禁止区域を密偵していた陸軍参謀中村震太郎一行が
    張学良配下の関玉衛の指揮する屯墾軍に
    拘束され殺害される中村大尉事件が発生した。

    事件の核心を掴んだ関東軍は調査を開始したが、真相が明らかにならず外交交渉に移されることとなった。
    その場で中国側は調査を約したが、日本による陰謀であるなどと主張したことにより、
    関東軍関係者は態度を硬化させ、日本の世論は沸騰し中国の非道を糾弾、日華間は緊迫した空気に包まれた。

    8月24日陸軍省は、満洲北西部・洮索地方の保障占領案を外務省に送付したが、
    両省間で協議の結果、見合わせることになった。

    しかし中国側が殺害の事実を否定する場合は、
    関東軍の協力を得ながら林久治郎奉天総領事が強硬に交渉することになった。

    鈴木貞一の戦後の回想によると、永田鉄山軍事課長と谷正之外務省アジア局長らが
    「満洲問題解決に関する覚書」を作成し、武力行使を含めあらゆる手段をもってやることが書かれていたという。

    この二つの偶発的ともいえる事件により、さらに

    日本人女学生数十人がピクニック中に強姦される事件も発生し、
    日本の世論を背景に関東軍は武力行使の機会をうかがうようになった


    中国側が事の重大性を認識し全面的に事実関係を認め、

    中村震太郎一行殺害実行犯の関玉衛
    を取り調べ始めたと

    日本側に伝達したのが9月18日午後に至ってからであったが、既に手遅れであった。

    この日の夜半、柳条湖事件が発生したためである。



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陸軍内部の動き

1927年(昭和2年)ごろ、
  • 永田鉄山、岡村寧次、小畑敏四郎らが二葉会[注釈 5]を結成し、

    人事刷新、総動員体制の確立、満蒙問題の早期解決などを目指した。
    同年11月ごろ、鈴木貞一参謀本部作戦課員らによって木曜会が組織され、


1928年3月には、
  • 帝国自存のため満蒙に完全な政治的権力を確立することを決定した。


1928年(昭和3年)10月に
  • 石原莞爾が関東軍作戦主任参謀に、1929年(昭和4年)5月に板垣征四郎が関東軍高級参謀になった。

    満蒙問題の解決のための軍事行動と全満洲占領を考えていた石原、板垣らは、


1931年(昭和6年)6月頃には、

  • 計画準備を本格化し、9月下旬決行を決めていたとされている。


1929年5月、

  • 二葉会と木曜会が合流して一夕会が結成され、人事刷新、満洲問題の武力解決、非長州系三将官の擁立を取り決めた。同年8月、岡村寧次が陸軍省人事局補任課長になり、


1930年(昭和5年)8月、
永田鉄山が軍務局軍事課長になった。同年11月永田は満洲出張の際に、
攻城用の24糎榴弾砲の送付を石原らに約束し、

1931年7月に

歩兵第29連隊の営庭に据え付けられた。

満州事変直前の
1931年8月には、
  • 陸軍中央の主要実務ポストを一夕会会員がほぼ掌握することとなった。


1931年3月、
  • 満蒙問題の根本的解決の必要を主張する「昭和6年度情勢判断」が作成され、
    同年6月、建川美次参謀本部第二部長を委員長とし、
    陸軍省の永田鉄山軍務局軍事課長、岡村寧次人事局補任課長、
    参謀本部の山脇正隆編制課長、渡久雄欧米課長、重藤千秋支那課長からなる、いわゆる五課長会議が発足し、

    一年後をめどに満蒙で武力行使をおこなう旨の「満洲問題解決方針の大綱」を決定した。
    同年8月、五課長会議は山脇に代わり東条英機編制課長が入り、
    今村均参謀本部作戦課長と磯谷廉介教育総監部第二課長が加わって、七課長会議となった。

    今村作戦課長は「満洲問題解決方針の大綱」に基づく作戦上の具体化案を8月末までに作成した。
    陸軍中央部では永田鉄山、鈴木貞一らが動き、関東軍では石原莞爾、
    板垣征四郎らが動くことで満洲事変の準備が整えられ、一夕会系幕僚が陸軍中央を引きずり、
    内閣を引きずって満洲事変を推進していった。



幣原外交

外務省は広東政府と何度も話し合いを行うなど国際協調を重視した幣原外交を行った。
当時の外務省の見解として幣原喜重郎外相は

「支那人は満洲を支那のものと考えているが、あれはロシアのものだった。
牛荘の領事を任命するには、ロシアの許諾が必要だった。

日本がロシアを追い出さなければ、満洲は清国領土から失われたことは間違いない。
しかし、日本は領土権は主張しない


日本人が相互友好協力の上に満洲に居住し、経済開発に参加できればよいのであって、
これは少なくとも道義的に当然の要求である。また、

中国がかりそめにも日本の鉄道に無理強いするような競争線を建設できないことは、信義上自明の理である」と述べている。

幣原外相は英米との国際協調により中国政府に既存条約を尊重することを求めようとし、
アメリカのマクマリー駐中国公使も同様の方針を本国政府に訴えていたが、
国務省内の親中派のホーンベルク極東部長によって日本との協調路線は退けられた。


事変の経過

柳条湖事件


事件直後の柳条湖の爆破現場
1931年(昭和6年)9月18日午後10時20分頃、
  • 奉天(現在の瀋陽)郊外の柳条湖付近の南満洲鉄道線路上で爆発が起きた。
    現場は、3年前の張作霖爆殺事件の現場から、わずか数キロの地点である。

    爆発自体は小規模で、爆破直後に現場を急行列車が何事もなく通過している。

    関東軍はこれを張学良の東北軍による破壊工作と発表し、直ちに軍事行動に移った。
    これがいわゆる柳条湖(溝)事件である。

    戦後のGHQの調査などにより、本事件は河本大佐の後任の関東軍高級参謀板垣征四郎大佐と、
    関東軍作戦参謀石原莞爾中佐が首謀し、軍事行動の口火とするため自ら行った陰謀であったことが判明している。

    奉天特務機関補佐官花谷正少佐、張学良軍事顧問補佐官今田新太郎大尉らが爆破工作を指揮し、
    関東軍の虎石台独立守備隊の河本末守中尉指揮の一小隊が爆破を実行した。




錦州爆撃

1931年(昭和6年)10月8日、

  • 関東軍の爆撃機12機が、
    石原の作戦指導のもと遼寧省錦州を空襲した(錦州爆撃)。

    奉天を放棄した張学良が拠点を移していた。石原は偵察目的であったとしているが、
    各機に25kg爆弾を5,6個載せて出撃し計75個投下している。南次郎陸軍大臣は、

    若槻禮次郎首相に「中国軍の対空砲火を受けたため、止むを得ず取った自衛行為」と報告した。
    関東軍は「張学良は錦州に多数の兵力を集結させており、放置すれば日本の権益が侵害される恐れが強い。

    満蒙問題を速やかに解決するため、錦州政権を駆逐する必要がある」と公式発表した。
    国際法上は予防措置は自衛権の範囲であるが、のち国際連盟により派遣されたリットン調査団は
    自衛の範囲とは呼びがたいと結論した。これによって、
    幣原の国際協調主義外交は国内外に指導力の欠如を露呈し大きなダメージを受けた。


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溥儀擁立

  • 関東軍は、国際世論の批判を避けるため、あるいは陸軍中央からの支持を得るために、
    満洲全土の領土化ではなく、傀儡政権の樹立へと方針を早々に転換した[要検証 – ノート]。

    事変勃発から4日目のことである。9月22日、天津の溥儀に決起を促し、代表者を派遣するよう連絡した。
    23日、羅振玉が奉天の軍司令部を訪れ、板垣大佐に面会して宣統帝の復辟を嘆願し、

    吉林の煕洽、洮南の張海鵬、蒙古諸王を決起させることを約束した。

    羅振玉は宗社党の決起を促して回り、鄭孝胥ら清朝宗社党一派は復辟運動を展開した。

    同日、蒙古独立を目指して挙兵し失敗したパプチャップの子ガンジュルシャップが石原中佐を訪れ、

    蒙古の挙兵援助を嘆願し、軍は武器弾薬の援助を約束した。

    特務機関長の土肥原賢二大佐は、清朝の最後の皇帝であった宣統帝・愛新覚羅溥儀に対し、

    日本軍に協力するよう説得にかかった。

    満洲民族の国家である清朝の復興を条件に、溥儀は新国家の皇帝となることに同意した。

    11月10日に溥儀は天津の自宅を出て、11月13日に営口に到着し、旅順の日本軍の元にとどまった。

    一方で関東軍は、煕洽、張景恵ら、新国家側の受け皿となる勢力(地主、旧旗人層など)に働きかけ、

    各地で独立政権を作らせた。その上で、これらの政権の自発的統合という体裁をもって、新国家の樹立を図った。



十月事件

  • 橋本欣五郎参謀本部ロシア班長ら桜会メンバーを中心に、近衛師団・第1師団より兵力を動員して、

    主要閣僚・宮中重臣らを襲撃し、荒木貞夫教育総監部本部長を首相とする軍事政権を樹立しようと企てたが、

    決行前に発覚し、10月17日、首謀者が憲兵隊に保護検束された。



若槻内閣の崩壊

  • 若槻内閣は南次郎陸相、金谷範三参謀総長らとの連携によって、関東軍の北満進出と錦州攻略を阻止し、
    満洲国建国工作にも反対していた。

    若槻内閣を見限った安達謙蔵内相は、三井、三菱、住友財閥が若槻内閣の長くないことを見込んで、

    円売りドル買いを仕掛けていたが、買い過ぎて窮地に陥っていたことを知り、

    積極財政政策を採る政友会と連合内閣を作り、財界を救済し、さらに金輸出再禁止によって巨利を得させようと考え、

    民政党と政友会の連立内閣を画策した。

    12月11日、若槻首相は閣議に出席しない安達内相に対して辞職を要求したが、安達は単独辞職を拒否したので、

    結局やむをえず総辞職を決定した。




犬養内閣の発足

若槻民政党総裁への大命再降下、犬養政友会総裁の単独内閣、
民政党と政友会による連立内閣の3つの可能性があったが、
12月13日、犬養内閣が誕生した。

犬養毅首相は荒木貞夫陸相の就任条件として、

満州問題は軍部と相協力して積極的に解決することを約束し、

森恪内閣書記官長が事変を積極的に推進した。

荒木の陸相就任には、軍事課長の永田鉄山・政友会の小川平吉ルート、

および軍事課支那班長の鈴木貞一・政友会の森恪ルートから、

犬養首相に働きかけがあった。また、蔵相には高橋是清が就任し、

金輸出再禁止(金解禁停止)を断行して、緊縮財政政策から積極財政政策に転換した。

その結果、三井財閥をはじめ各財閥は巨利を得た。

12月23日、満蒙独立国家の建設を目指す「時局処理要綱案」が陸軍によって策定され、


1932年(昭和7年)1月6日、

  • 独立国家建設を容認する、陸軍省、海軍省、
    外務省関係課長による三省協定案「支那問題処理方針要綱」が策定された。
    12月17日と27日に本土と朝鮮より満洲に兵力が増派され、

    12月28日より、錦州を攻撃し、翌年1月3日に錦州を占領した。

    1月28日、関東軍は参謀本部の承認のもとに、北満ハルピンへの出動を命じ、
    2月5日、ハルピンを占領し、日本軍は満洲の主要都市をほとんどその支配下に置いた。

    2月20日の総選挙では与党政友会が圧倒的勝利を収めた。



1931年~1933年(昭和6年)9月18日 - 満洲事変は、

中華民国奉天(現瀋陽)郊外の柳条湖で、関東軍が

南満洲鉄道の線路を爆破した事件(柳条湖事件)に端を発し、

関東軍による満洲(現中国東北部)全土の占領を経て、

1933年5月31日の塘沽協定成立に至る、日本と中華民国との間の武力紛争(事変)である。

関東軍はわずか5か月の間に満洲全土を占領し、軍事的にはまれに見る成功を収めた。

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間島(かんとう)

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親軍的政党

  • 安達謙蔵は中野正剛らと
    1932年

    国民同盟を組織し、満洲事変を引き起こした軍部に呼応し、政党内部から親軍的一国一党制を志向した。

    北一輝に触発された中野正剛は、国家社会主義を鮮明にした東方会を組織、

    親軍的政治結社として政友会・民政党などを批判した。

    無産政党である社会民衆党もまた従来の植民地朝鮮、満洲の放棄の主張から路線を変更し、満洲事変に賛同した。


    スティムソン・ドクトリン

    • アメリカの国務長官スティムソンは、
      1932年(昭和7年)1月7日に、

      日本の満洲全土の軍事制圧を中華民国の領土・行政の侵害とし、
      パリ不戦条約に違反する一切の取り決めを認めないと道義的勧告(moral suasion)に訴え、
      日本と中華民国の両国に向けて通告した(いわゆるスティムソン・ドクトリン)。



    上海市街戦

    「第一次上海事変」

    1932年(昭和7年)1月以降、

      ,li>上海市郊外に蔡廷鍇の率いる十九路軍が現れ、

      日本軍守備隊が保安防衛をおこなうなか一方的に攻撃を受け、上海で日中両軍が交戦状態となった。




    満洲国の建国  満洲国皇帝 溥儀

    1932年(昭和7年)2月初め頃には、
    関東軍は満洲全土をほぼ占領した。
    3月1日、満洲国の建国が宣言された。

    国家元首にあたる「執政」には、清朝の廃帝愛新覚羅溥儀が就いた。
    国務総理には鄭孝胥が就き、首都は新京(現在の長春)、元号は大同とされた。
    これらの発表は、東北最高行政委員会委員長張景恵の公館において行われた。
    3月9日には、溥儀の執政就任式が新京で行なわれた。

    同年3月12日、犬養毅内閣は「満蒙は中国本土から分離独立した政権の統治支配地域であり、
    逐次、国家としての実質が備わるよう誘導する」と閣議決定した。
    日本政府は、関東軍の独断行動に引きずられる結果となった。
    同年5月に五・一五事件が起き、政府の満洲国承認に慎重であった犬養は、反乱部隊の一人に暗殺された。

    1932年(昭和7年)6月14日、
    衆議院本会議において、満洲国承認決議案が全会一致で可決された。9月15日には、
    大日本帝国(斎藤実内閣)と満洲国の間で日満議定書が締結され、
    在満日本人(おもに朝鮮族日本人)の安全確保を基礎とした条約上の権益の承認と、
    関東軍の駐留が認められた。


    リットン調査団

    1932年(昭和7年)3月、中華民国政府の提訴により、
    国際連盟から第2代リットン伯爵ヴィクター・ブルワー=リットンを団長とする調査団(リットン調査団)が派遣された。

    この調査団は、

    半年にわたり満洲を調査し、9月に報告書(リットン報告書)を提出した。

    翌1933年(昭和8年)2月24日、このリットン報告をもとにした勧告案(内容は異なる)が

    国際連盟特別総会において採択され、
    日本を除く連盟国の賛成および棄権・不参加により同意確認が行われ、
    国際連盟規約15条4項および6項についての条件が成立した。

    日本の国際連盟脱退

    満洲国の存続を認めない勧告案(「中日紛争に関する国際連盟特別総会報告書」)が
    国際連盟で採択された事を受け、

    1933年(昭和8年)3月27日、日本は正式に国際連盟に脱退を表明し、
    同時に脱退に関する詔書が発布された(なお、脱退の正式発効は、2年後の1935年3月27日)。


    熱河作戦塘沽協定の締結

    塘沽協定締結
    熱河省主席湯玉麟は、満洲国建国宣言に署名したものの、
    張学良と内通し、
    約3万にのぼる反満抗日の軍隊を育成していた。
    一方、満洲国と中華民国との国境山海関では、昭和7年秋以来小競り合いが散発していたが、
    1933年1月1日、関東軍は一部をもって山海関を占領し、北支那への出口を押さえた。

    1933年春、関東軍は熱河省を掃討することを決し、
    満洲国軍主力及び第六師団、第八師団、歩兵第十四旅団、騎兵第四旅団による熱河作戦を計画した。
    2月下旬、第六師団及び騎兵第四旅団は行動を開始し、
    3月2日に凌源を、3日に平泉を、4日に承徳を陥落させ、3月中旬までに古北口、
    喜峰口付近の長城線を占領した

    1933年3月中旬、中華民国は、
    何応欽の指揮する中央軍約20万を直隷地区に進め、日本軍の南下に対抗させた。
    中華民国側は、3月下旬にはその兵力の一部を長城線の北方に進めた。
    これに対して、関東軍は、4月11日に第六師団、歩兵第十四旅団、
    歩兵第三十三旅団をもって「灤東作戦」を開始し、長城を越えて中国軍を灤東以南に駆逐し、
    19日、長城線に帰った。ところが、中国軍は撤収する日本軍を追尾して灤東地区に進出したので、
    5月8日、第六師団・第八師団は再び行動を起こし、5月12日には、灤河を渡って北京に迫った。

    1933年(昭和8年)5月31日、河北省塘沽において日本軍と中国軍との間で停戦協定が結ばれた。
    これにより柳条湖事件に始まる満洲事変の軍事的衝突は停止された。
    しかし、これは中国側が満洲国を正式承認したものではなく、
    満洲の帰属は両国間の懸案事項として残されたままであった。

    中華民国は国際連盟による1932年決議を根拠に満洲の法的帰属と
    日本による民族自決への干渉を連盟社会で弾劾する外交政策を採用し、
    国権回復運動における主要な対象を日本人問題に措置することとなる。
    日本は中華民国蒋介石政府による条約の一方的破棄とそれにもとづく満蒙地域、

    支那租界地域における中華民国行政官や軍隊組織による在留日本人への迫害を非難し、
    中国中央政府の「馬賊」に対する警察力の不足を口実とした
    日本人への殺害・暴行事件の放置に対抗するため実力組織による自衛行動を執らせることとなる。
    また満洲国の分離建国問題については、単なる新国家の承認問題として中華民国の外交的主張を無視した。


    国際連盟脱退との関係

    熱河作戦は満洲国領土を確定するための熱河省と河北省への進出作戦であった。
    陸軍中央では万里の長城以北に作戦範囲を限定し、
    悪化する欧米諸国との関係を局限して国際連盟脱退を防ごうと考えていた。

    しかし、1933年(昭和8年)2月20日に閣議決定により日本国の国際連盟脱退が決定され、
    24日にはジュネーブで松岡全権大使が国際連盟の総会議場より退場した。
    これはリットン調査団の報告を受けて24日の国際連盟総会で「中日紛争に関する国際連盟特別総会報告書」が

    決議されたが、この勧告を受けた後に熱河作戦を継続した場合、
    国際連盟規約第16条に抵触することとなり、
    勧告を無視して戦争に出た場合は連盟加盟国に対日宣戦の正当性を付与する可能性があり、
    あるいは経済制裁の正当性を与え通商・金融の関係が途絶する可能性があったためである。
    このような制裁を防ぐため、外務省では陸軍中央の脱退尚早論を押し切る形で勧告前の連盟脱退を進めることとなった。
    結果的に連盟外の米国が当初から経済制裁に反対の立場であったことや、
    連盟各国の沈黙と無視により中華民国による連盟規約第16条(経済制裁)の対日適用の要求は黙殺された。


    白系ロシア人の救済

    • 中ソ紛争における中華民国の敗北により中華民国はソ連への協力を迫られ、
      日本の情報源の一つであった白系ロシア人は

      中国内ロシア租借地である中東鉄道付属地(ハルピン)から締め出されるなど危機に陥っていた。

      しかし、満洲国が誕生すると、

      1934年に関東軍特務機関員の秋草俊が監督を務める

      白系ロシア人の人権尊重や地位向上のための満洲国政府は白系露人事務局を設置した。

      1935年には満洲国がソ連と北満鉄道讓渡協定を結んでソ連から中東鉄道及びその付属地を買収した。




    1939年5月11日 - 9月16日
    ノモンハン事件
    満州国とモンゴル人民共和国の間の国境線をめぐって発生した紛争

    1937年~1945年 - 日中戦争(支那事変)

    1941年~1945年 - 太平洋戦争(大東亜戦争、アジア・太平洋戦争)

    参考:wikipedia

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